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リカバイツホール Rechabite Hall

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2015年10月18日(日)
リカバイツホール Rechabite Hall
プラーン Prahran
メルボルン Melbourne
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プラーンのリカバイツホールは、1800年代後半にメルボルンで盛んであった互助会と禁酒運動の中心的な役割を果たしたが、メルボルンの史上最も汚職と金権政治で有名な元首相ジェームス・ムンローの活動の本拠地であった。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 3.5 1/640秒 ISO感度100 露出補正 オート JPG レンズ EF 70-200mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2014年1月12日13:23

リカバイツは現存する団体である。
豪州Independent Order of Rechabites 公式web

 Rechabite Hall リカバイトホール
住所:10 Little Chapel Street
建築年:1888−1889年
建築時期:ビクトリアン
建築様式:Second Empire 第二帝国様式
建築家:Colin Campbell
請負建築:Henry Slade
階数:2階
リカバイトホールはセカンドエンパイア様式の中規模の建物で、中央に傾斜した屋根マンザードルーフを持ったタワーが特徴である。
ブルーストーンが建物の基盤部分に使われている。入口部分には精巧に磨き上げられた2本のビクトリア州ハーコート(Harcourt キャスルメイン郊外)産大理石の柱が設置されている。

 Onmydoorstep

 Walking Melbourne

 James Munro (Wikipedia

 1800年代のメルボルンでは住民の互助会(friendly societies)や禁酒運動(Temperance movements)があちこちで盛んに活動していた。リカバイトホールはその活動の拠点のひとつであり、現存する希少な建物である。ビクトリア州には他にもふたつほどリカバイトホールが現存する。外観や内装には資金をかけて小食をほどこしているが、これは禁酒運動組織の中でも最も裕福な団体と云われたIOR( Independent Order of Rechabites)と関係があったからである。1888年にビクトリア植民地のIORには1万名の会員がいた。プラーンのリカバイトホールは、「Perseverance Tent」第34支部が所有した。Tentは支部の意味である。1871年建設のプラーンリカバイトホールの跡地に建てられたものであった。

Independent Order of Rechabites (IOR)wikipedia

 リカバイトという団体であるが他の同様の互助組織と同様に、相互の助け合い、モラルの向上、禁欲の提唱、病欠の場合の給付、土地家屋購入の際の金融などをメンバーの為に行う組織であった。リカバイトのビジネス面では建築請負業者のClerk of Works社や家具製造業者、ガス灯の業者、建築業者などが会員でもあった。つまり清廉潔白な会員ばかりではなく、莫大な資金を目当てに業者もまた集まっていた。中でも有名なのはジェームス・ムンロー第15代ビクトリア植民地首相(James Munro)であった。1800年代後半にはテンペランス運動はビクトリア植民地の政治や社会生活に大きな影響を及ぼした。著名な政治家で何名かは同運動の会員であった。ジェームス・ムンロー(1832-1908)はプラーンリカバイトホールを政治基盤の中心として利用していた。1870年頃から1880年代のマーベラスメルボルンと云われた繁栄の時代に土地開発でムンローは莫大な資産を築いた。



 1890年代に入り土地の高騰が終焉するとムンローの会社も行き詰った。ムンロー自身で約10万ポンド、会社で60万ポンドの負債が発生した。1892年2月にムンローは首相を辞任し、ポートメルボルンから船でロンドンへ逃げ出した。1年後にメルボルンへ戻り破産が宣告された。ジェームス・ムンローの生涯は、テンペランス運動と建築産業、土地投機と密接な関係がある。リカバイトホールはムンローの絶頂期にムンローの政治力と資金調達力を基に建てられた建物である。

メルボルンの主な互助会(friendly societies)
ルーフホール (オッドフェローズホール)

マンチェスター ユニティー ビル

バークプレイスビル Bourke Place

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