1800年代のメルボルンでは住民の互助会(friendly societies)や禁酒運動(Temperance movements)があちこちで盛んに活動していた。リカバイトホールはその活動の拠点のひとつであり、現存する希少な建物である。ビクトリア州には他にもふたつほどリカバイトホールが現存する。外観や内装には資金をかけて小食をほどこしているが、これは禁酒運動組織の中でも最も裕福な団体と云われたIOR(
Independent Order of Rechabites)と関係があったからである。1888年にビクトリア植民地のIORには1万名の会員がいた。プラーンのリカバイトホールは、「Perseverance
Tent」第34支部が所有した。Tentは支部の意味である。1871年建設のプラーンリカバイトホールの跡地に建てられたものであった。
リカバイトという団体であるが他の同様の互助組織と同様に、相互の助け合い、モラルの向上、禁欲の提唱、病欠の場合の給付、土地家屋購入の際の金融などをメンバーの為に行う組織であった。リカバイトのビジネス面では建築請負業者のClerk
of Works社や家具製造業者、ガス灯の業者、建築業者などが会員でもあった。つまり清廉潔白な会員ばかりではなく、莫大な資金を目当てに業者もまた集まっていた。中でも有名なのはジェームス・ムンロー第15代ビクトリア植民地首相(James
Munro)であった。1800年代後半にはテンペランス運動はビクトリア植民地の政治や社会生活に大きな影響を及ぼした。著名な政治家で何名かは同運動の会員であった。ジェームス・ムンロー(1832-1908)はプラーンリカバイトホールを政治基盤の中心として利用していた。1870年頃から1880年代のマーベラスメルボルンと云われた繁栄の時代に土地開発でムンローは莫大な資産を築いた。