メルボルンガス会社は、メルボルンのガス会社各社の中で最大の会社であり、ガス検査官住宅は、その組織の中の構成員である。ガス検査官住宅は、産業現場に作られた住宅という意味でも重要性は高い。下水管が設置してあるのも興味深い。
617 St Kilda Road, St Kilda.のバルブハウスと比較できる。1800年代後半にメルボルンでの都市ガスが普及していたことは特筆できる。フィッツロイガス工場は、石炭ガス化工場である。世界で最初のアーク溶接したガスホールダーを所有したことで名高い。1856年にウェストメルボルンで石炭ガス化工場が建設され、メルボルンで最初の都市ガスの供給が開始された。同年メルボルンの自治体(Corporation)フィッツロイ区の住民がスミス通りのクラークホテルに集まり、フィッツロイの中で都市ガス導入の検討会を行った。
メルボルンガス&コークス会社(Melbourne Gas and Coke Company)の独占により価格高騰への住民の関心が高まった。結果として、いくつかの地域ガス会社が設立された。1859年にコリンウッド、フィッツロイに地域ガス&コークス会社が設立された。フィッツロイガス工場は、1861年にノースフィッツロイのラリー通り(現、アレキサンダーパレード)に建設され、半径6マイル以内の地域に都市ガスを供給した。ガス化工場の最初の場所は、アレキサンダーパレードとスミス通り北側の場所であり、エンジニアウィリアム・エルスドン(William
Elsdon)が設計した。ガス工場は、ゴア通りを渡り、ジョージ通りまで西側に拡張された。
反対側にガソメーターホテル(Gasometer Hote)が立った。フィッツロイガス工場は、1878年にメルボルンとサウスメルボルンのガス会社と合併して、メトロポリタンガス会社(Metropolitan
Gas Company)が誕生した。フィッツロイガス工場は、フィッツロイステーションと呼ばれた。フィッツロイガス工場は、他の都市ガス工場とは異なり、あまり利益が出ず、ガス生産量は徐々に減っていき、ガス工場は閉鎖され、会社のワークショップとして再開発され、ガス貯蔵所となった。メトロポリタンガス会社によって1919年に固定ガスホールダー建設された。主任技師ジョセフ・ニューウェル・リーソン(Joseph
Newell Reeson)は、豊富なガス工場建設の経験があり、巨大な鉄製構造物の製造の際にアーク溶接を使う技術も持っていた。世界で初めてアーク溶接を使用して第3ガスホールダーを1923年に完成した。このガスホールダーは、1878年に解体された。残地物は、埋設されたが、今なお、現存すると思われる。