2020年3月22(日)
キウ精神病院 Kew Lunatic Asylum
キウ Kew メルボルン Melbourne
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キウ精神病院は、オーストラリア最大の精神病院(psychiatric)で、ビクトリア植民地で"lunatics"、 "inebriates"、"idiots"と呼ばれた人々を収容した。ビクトリアでは初めての精神病院目的型(purpose built asylum)建築物である。アララット(Ararat)とビーチワース(Beechworth)の精神病院より規模も大きく、費用も高かった。
撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 1/1000 絞りF3.5 ISO感度 100 露出補正 太陽光 JPG レンズ
EF 24-70mm f/2.8L 2020年1月21日15:22 撮影:板屋雅博
Kew Lunatic Asylum(wiki)
FORMER WILLSMERE HOSPITAL
当初の壮大な計画や理想とは違って、キウ精神病院は難しい数奇な(chequered)な経緯を辿ることになった。117年の歴史の中で、いくつもの事件があり、ロイヤル委員会の査問を受けている。最初の50年間は、超過密な収容(Overcrowding)、経営上の失敗(
mismanagement)、職員や物資の不足(,lack of resources)、劣悪な衛生と病気の発生などであった。後半には、時代遅れの施設は施設管理状況は批判の対象となった。キウ精神病院は1988年12月まで操業し、精神異常者(insane、mental、psychiatric)やメンタルの病院として長期や老齢の患者を収容した。中央の建物や周囲の土地は、1980年代に州政府によって民間に売却され、住宅用途として再開発された。
1850年代、ビクトリア植民地の精神病院は、既にどこも満杯状態であった。ヤラベンド精神病院( Yarra Bend Asylum,)は、建設後6年目であったが不適当と考えられており、もともと刑務所であったところを転用したカールトン精神病院(Carlton
Lunatic Asylum:Collingwood Stockade )は、既に荒廃していた。1854年に政府は新しい精神病院の建設を決めて場所の選定に入った。健康的、自由なアクセス、採光、新鮮な空気、水捌けなどが要望された。。政府公共建築局の
G.W. Vivianによりヤラ川河畔、ヤラベンドの高台が選ばれた。キウの地元住民は、反対して、請願活動したが、認められなかった。(to no
avail)
キウ精神病院は、1830年代のロンドン・ハンウェル病院と1850年代の英国コルネイハッチ精神病院をモデルにE文字形状をしていた。建物は、現場で取れたの粘土を使用したオーバーサイズ煉瓦で建設された。表面はセメントで彩色された。中央の事務所棟は、3階建て急傾斜マンザード屋根とキューポラ(cupola 建築物の上にある比較的小さく、丸屋根のような、背が高い構造物)がある。両側に二階建ての病棟があり、男性用と女性用に分れている。各翼棟にマンザード屋根を持つタワーがあり、水タンクが内蔵されている。各病棟は、コートヤード(四方を建物・塀で囲まれた中庭)があり鉄製の柱があるベランダで囲まれている。大部屋の天井高は、4.3m、壁は明るく彩色され、狭い列でベッドが並んでいた。床は木材で磨かれていた。病院へのアクセスは、木々が並んだプリンセス通り(現メインドライブ)であった。第二道路は、裏側からで業務用に使用された。基本プランは、アララット、ビーチワースと同様であった。
初期の患者は、ヤラベンド精神病院とカールトン精神病院から移転して、右棟に男性、左棟に女性が収容された。大部屋で患者のタイプによって区別された。男性/女性、有償/貧困、従順/反抗的などである。女性棟は、トイレの為に小さく、洗濯物の乾燥のため、中庭は、女性側だけであった。 入院手続き 精神病院法(1867:Lunacy Statute、1880年〜1928年:Lunacy Acts、1933年:Mental Hygiene Act)により各種の手続きがあった。@2か所の医者の署名がある書類と友人、知人、親戚の要請によるもの。入院後、病院監督官が患者を検査して許可するか、退所させるか決定する。A精神病者が徘徊しており、適切なケアが為されていない場合に、2名の当局担当者の手続きにより精神病院に入院させる。通常は警察により処理される。B刑務所で事務長の鉄付きにより、囚人が精神病と診断された場合。
入院後、適切な基本データが記録された。年、性別、結婚、住所、前病院、刑務所、知人友人名、宗教、職業、家族親族の精神病歴、精神病症状、体調。1900年からは写真も入院時に撮られた。本や衣類などの所持品は、友人や家族に返却された。病院から逃げ出した場合に発見を容易にするため患者は病院服を着た。
キウ精神病院の最初の50年間に患者の一般的な病名で多くの病院で見られたもの。エミール・クレペリン時代以前の時代である。
妄想精神病(Delusional insanity)、認知症(Dementia)、癲癇(Epilepsy)、General paralysis(全身麻痺)/paresis
of the insane(精神病による麻痺)、白痴(Idiocy)、酩酊(Inebriation)、うつ病(Melancholia)、産床性躁病(Puerperal
mania)などである。現代ではうつ病(depression)、緊張病,(catatonia)、 精神分裂病(schizophrenia.)などに分類される。
1870年代に植民地の精神病院での患者への処置に対して怒りの声が高まり、メルボルンのアーガス紙に放浪者(Vagabond)の記事と挿し絵が乗ったことも騒ぎを大きくした。1884年〜86年精神病院に関するエプライム・ゾックス(Ephraim
Zox)委員長のロイヤル委員会が招集され、65のレポートが提出されて、改善策が1888年精神病法として施行された。犯罪者は、一般患者と分離されることになり、アララットのJ病棟へ移動された。女性の危険患者は、サンベリー(Sunbury
Asylum)へ移動された。白痴、愚鈍患者と精神病患者は分離することになり、キウ白痴病棟といくつかのが愚鈍病院が建設された。ゾックス委員会は、医者の権限を増加した。医学の専門家が、決定権を持つように改善した。それ以前は監督官が独自で決定していた。
キウ精神病院の初期、精神病(lunatics)と白痴(idiots)、愚鈍(imbeciles)には区別はなかった。
問題(difficult)児童や知的障害児童( intellectual disability)が大人と共に収容された。1879年頃には600名の児童がすべての入院患者の1/4がビクトリアの各種施設に在籍した。1880年代に政府は、児童患者の施設を別に作ることを決定した。ゾックス委員会は、愚鈍児童のために、ヤラベンド精神病院の場所を建設に適していると推薦したが、結局、キウの事務所棟と入り口の場所に1885年5月にキウ愚鈍棟(キウ・コテージ)が建設されオープンした。キウ愚鈍棟は、子供のみが入所したが、大人になってもそのまま留まった。
120年間の運営期間中、キウ精神病院の名前は、幾度も変遷した。精神病患者の取り扱いに対する社会の見方の変化や施設の改善、政府の法律に対応している。建設から1905年までは治療よりは隔離施設としての精神病院であった。キウ首都精神病院(Metropolitan
Lunatic Asylum at Kew)と呼ばれた。この時期、患者ではなく収容者(inmates)と呼ばれ、隔離施設が強調された。1903年の精神病法により、"asylums"は、精神病の病院(hospitals
for the insane)となったが、実施は1905年であった。inmatesは、 patientsと呼ばれた。1933年の法によりKew
Mental Hospitalとなった。第二次大戦後も大幅な改善が見られた。1948年にオーストラリアの精神病医者John Cadeがが開発した炭酸リチウムなどが使用された。その後、Willsmere
Hospitalと命名された。
1943年キウ市助役W. D. Birrellがキウ精神病院の閉鎖と住宅街の開発を主張したが、これは病院設立当初からの多数の意見でもあった。しかしビクトリアの精神病院はどこも満杯であり、実現しなかった。1986年に430名まで患者数が減少し、3/4が精神病患者であった。当時の労働党政権は、精神病院を解体し、住民のためのプロジェクトを発表した。患者は、Plenty
Psychiatric Hospital in Bundoora、Heatherton Tuberculosis Sanatorium、
Maroondah Hospital, Monash Medical Centre or Peninsula Hospital.へ移動した。
Willsmereは、1988年12月に閉鎖され、州政府によって事務所棟は歩損することを条件にCentral Equity に売却された。Willsmere住居開発区は、1993年10月に州首相ジェフ・ケネット(Jeff
Kennett.
)の臨席で開所された。
キウ精神病院 Kew Lunatic Asylum
別名 ウィルスメア病院 Willsmere Hospital
建設:
営業:1871年〜1988年
小規模には、1856年より開始
建築家:G.W. Vivian、Frederick Kawerau
ビクトリア公共建築局
建築様式」:イタリアン Italianate
優雅で美しく、また実用的な建物である。精神病患者にとっての素晴らしい病院であり、他の精神病院が刑務所に似た建物であったが、メルボルンが慈愛に満ちた近代都市でありことを示す様な建築物であった。垣根が低い壁(ha-ha
walls)を使用し、広範囲に景観を作りこむなどを行っている。 メルボルンへの文化的、歴史的な観点を長い間考察した結果、1978年3月に州遺産に登録された。
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