2019年4月5日(金)
ノースカールトン公立小学校 No 1252
コリンウッド刑務所
North Carlton cable tram complex
ノースカールトン North Carton
メルボルン Melbourne
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コリンウッド収容所は、囚人を収容する収容所であった。1853年に建築され、1866年に精神病院に転用され、1873年に閉鎖された。収容所は現存していないが、ニコルソン通りの収容所ホテル(Stockade
Hotel)や跡地に建てられたリーストリート通り小学校として残っている。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/2000 F4.5 ISO感度 100 オート 露出補正 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2019年1月13日18:21 板屋雅博撮影
VHD Collingwood Stockade
カールトンノースのリーストリート通り小学校として知られている公立小学校1252番は、1873年の新しく発足した公共教育局(Department
of Public Instruction)が行った設計コンペに入賞し、公立普通小学校として建築家WH.エレカーが設計した。1877年にゴシックリバイバル様式で建設され、大きなスレート屋根、比較的低い壁、ゴシック様式の窓と控壁(buttresses)、巨大な窓がない切り妻の屋根の端などが特徴である。中央基軸線に沿って設計されており、ふたつの両翼の建物が備わっている。公立小学校1252番は、1878年6月28日に教育大臣によってオープンした。
リーストリート通り小学校の敷地の大部分は、かつて1853年に設立され近くの石切り場で働く囚人を収容したコリンウッド収容所( Stockade)であった。収容所は、1866年に閉鎖され、収容所は危険性が無い低能者(imbeciles)の為の精神病院として精神医学局(Mental
Hygiene Department)が取得した。1873年に病院は閉鎖されて、患者は新しく出来たキュウの精神病院へ移された。それまでの病院は、 大量の硫黄で燻蒸消毒(fumigation)されてから、1873年7月28日に小学校として開校した。残念なことにそれまでの建物は完全に解体されて、現在の小学校が1878年に建設された。
ブルーストーンの礎石などの昔の建物の構造は、現在の建物の中に収まっている。いくつかの地下の監房などは1913年に建築された小学校低学年校舎の床下に現存しており、近年、発見されている。小学校低学年校舎は、典型的なエドワード期の建物で、ほとんど建築当初の姿を残している。
エレカーの設計した小学校の最も重要なものは、ブニヤン小学校(Buninyong)である。
当時のメルボルンには、4か所の囚人収容所があった。1853年2月3日にオープンした。当初は、60名の囚人を収容する為に建設され、一時的な使用を意図した構造であった。木造で作られ、脱走を望む囚人にとっては、ある程度、簡単であった。メインホール、3つの宿泊棟、いくつかの増築棟などから成っており、ブルーストーン製の建物は、その後に建築された。1855年には300名の囚人を収容していた。収容所は、6エーカー(2.4ha)の広さがあり、北はNewry
Street、南はPrinces Street、東はCanning Street、西はRathdowne Streeまでの広大なものであった。囚人は、ブルーストーンの石切り場、現在のカーテン広場(Curtain
Square)で働くことや教育授業や日曜学校に参加することにより、罪科の減免を得ることが出来た。
土地への要望や、収容所への一般の嫌悪などで刑務所の改革が要望され収容所の閉鎖が決まった。全ての囚人は、1866年8月にペントリッジ(Pentridge)に新しく出来た刑務所に移動し、収容所は、精神病院となった。当初は精神に異常をきたした囚人を隔離する為の施設であったが、その後、一般の人も受け入れ、短期収容棟と長期収容棟があった。1868年コリンウッド精神病院は、それまで刑務所に収容されていた重篤な患者の受け入れを停止した。アララットとビーチワースにその頃オープンした郊外型の精神病院により、コリンウッド病院へのプレッシャーは弱まった。コリンウッドは、精神的に遅れた人々を収容する組織となった。1872年にキュウに新しい精神病院がオープンし、コリンウッド病院は、独立した病院としての活動を停止し、キュウ病院の一病棟となった。
1873年6月に全ての患者はコリンウッドからキュウに移転して建物は教育局の管轄に移された。1873年6月3日にC. S. Perry神父は、コリンウッド精神病院を州立小学校として使うことを提案した。州立小学校は、フィッツロイ小学校が完成するまでの一時的な小学校として使用されたが、現在まで使用が続いている。小学校の建物には問題が多く、1878年に新校舎が建てられた。1879年にリーストリート州立小学校と名前が変わった。院長館と囚人食堂のふたつの建物は収容所の初期の建物であるが、20世紀まで残存していた。
院長館は、その後、小学校校長の官舎となったが、その後、修理不能な状態になり、1913年に解体された。小学校には、小学校校長の官舎の一部であったと思われるブルーストーン製の石材が残っており、
H.M.S. (Her Majesty's Stockade) T.M.S. (Thomas Malcolm Smith, the first
Governor). と書かれている。この地は呪われていると云われており、この場所で撮った映画の俳優はそこから帰ってくることはないと云われている。
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