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メルボルンケーブルトラム事務所 Melbourne Tramways & Omnibus & Company Office

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ノースフィッツロイ North Fitzroy

2019年7月7日(日)
メルボルンケーブルトラム事務所
Melbourne Tramways & Omnibus & Company Office
ノースフィッツロイ North Fitzroy
メルボルン Melbourne
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1850年以前、クイーンパレード(Queens Parade)は、メルボルンとハイデルベルク( Heidelberg)結ぶ幹線道路であり、北部や北東部のノースコット(Northcote)やプレンティ川(Plenty River)地区への分岐点であった。道路は、ロバートホドル(Robert Hoddle)が測量し、大型のチェーン3幅道路(three chain wide boulevard)と規定され1853年に設定された。メルボルンで測量された最も古い道路のひとつである。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/250 F8.0 ISO感度 100 オート 露出補正 -1/3 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2019年1月13日11:22 板屋雅博撮影

 ハイデルベルグ道路として知られて、1900年代にプレンティロードと改名された。クイーンパレードは、クリフトンヒルとノース・フィッツロイの境界線であった。サウス・フィッツロイ(South Fitzroy)とコリンウッド( Collingwood)が当局や個人によって測量され、ブランズウィック(Brunswick)やノースコット(Northcote)が農地として当局によって測量された。この地区の開発は1850年代のノースコット市街指定地(reserve)から始まった。スコットランド・アザミ(Scotch Thistle:スコットランドの象徴)、後のターミナルホテル(Terminus Hotel。 492 Queens Parade)は、古いタウン指定地に1854年に建築され、メリクリーク交差点(crossing)にあって旅行者にサービスを提供した。1857年建築のフルーストーン製の家屋群がラッシュオールクレセントの角地( at 438 Queens Parade)に立っている。

 1855年にイースト・コリンウッド行政当局(East Collingwood Council)が1855年に設立され、この地区までのアクセスを良くする為にスミス通り、ウェリントン通り、ホドル通りがクイーンパレードまで北側へ延ばされた。クイーンパレード地区の土地区画が1865年から1869年まで販売された。しかし1875年にデイントンファミリーホテル(Daintons Family Hotel と現Normanby Hotel)、1876年にセントジョン・ローマ・カトリック教会が建設されるまでは、開発されなかった。ケーブルトラムは、1887年から運行を始め、ターミナル駅とトラム駅舎が、ターミナルホテルの隣に作られた。1888年にロイヤルパークからクリフトンヒルへの鉄道がオープンした。ケーブルトラム路線は、ノースコットまで延長し、メリクリーク駅でトラムに乗降した。クイーンパレードの南側であるクリフトンヒルは、1880年代のブーム期に急速に土地開発が進んだが、ノースフィッツロイ側では建物の建設はスローペースであった。

  1880年代から90年代にかけて、ノースフィッツロイのクイーンパレードに面した場所は、土地を分割して販売され、多くの店舗が並んだ。クイーンズパレードのクリフトンヒル側には、1890年代までにノーマンビーホテル(Normanby Hotel 139 Queens Parade)、Melbourne Saving Bank (1889年:99 Queens Parade) 、Clifton Hill Hotel (1884年:89 Queens Parade).などが建設された。ノースコットトラム終着駅につながるフィッツロイノース側には、National Bank of Australasia (1886年:270 Queens Parade)、the 1889 London Chartered Bank (1889年:370 Queens Parade)、Scotch Thistle Hotel (1854年:492 Queens Parade, renamed the Terminus Hotel)が建設された。ユナイテッドキングダムホテル(1880年、再建1938年)がハイデルベルグ通りとプレンディロードの交差点に建設され、注目を集めた。

1890年代の不況時にクイーンズパレード通りの商業開発は停まり、1900年代のフェデレーション期に通りの両側で初期の建物の建て替えや再開発が始まった。メルボルン都市開発局(MMBW:Melbourne and Metropolitan Board of Works )の1900年頃の開発プランでは、この商業街路の開発と通りの両側に屋根付き商店が並び木々に記入されている。道路にかかった屋根付き商店は現在も残っている。


Melbourne and Metropolitan Board of Works

 クイーンパレードの景観は、1800年代と第一次大戦後に発達した。西側端の中央分離帯にプラタナスやエルムの木を植えた。プレンティ通りとハデルベルグ通りの交差点の東側の端には、三角形の緑地帯が作られ、 トキワガシ(holm oak)が植えられた。1920年代には、庭を持つ2戸式家屋(detached houses)が建てられた。ノースコットに向かってトラム終着駅の近くにエドワード期の家屋がたくさん建築された。

median strips 中央分離帯
planes tree プラタナス


VHD

 Inner Circle railway line

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