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メルボルンの公園

パークビル

ロイヤルパーク公園 Royal Park

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2013年5月30日(木)
ロイヤルパーク公園 Royal Park
パークビル Parkville
メルボルン Melbourne
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シティの北側に広大な敷地を誇るのがロイヤルパーク。南側のアルバートパーク、南東のキングスドメイン公園地区と並んでメルボルンの三大公園のひとつ。スポーツ施設も多いが、あまりに広大すぎて人の姿がほとんど見当たらない。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/60 F20.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 -1/3 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2010年12月29日13:21 板屋雅博撮影


 ロイヤルパークは、181ヘクタールの広さで、アルバートパーク225ヘクタールに続いて2番目の広さ。東京の都心部では一番広いのは代々木公園(54ヘクタール)であるので如何に広いかが判る。ヨーロッパ人の移住前には、この地はアボリジニの一派ウルンジェリの人々が暮らしていた。メルボルンの大きな公園のほとんどは初代総督のラトローブによって指定されているが、ロイヤルパークも1845年に10kuが将来の公園地区として指定されている。しかし1854年には6kuに縮小されている。更にゴールドラッシュによる人口の急増に伴い、2.83kuに縮小されて、パークビル北、南、西の住宅サバーブが作られた。1861年には、ロイヤルパークの中に0.22kuが割り当てられメルボルン動物園が作られた。

  またアップフィールド鉄道線、ユニバーシティ高校(1929年)、ロイヤルメルボルン病院(1944年)、ロイヤル子供病院(1957年)、ロイヤル歯科病院(1963年)などが道路なども伴ってロイヤルパークの中に作られた。1860年のバークとウィルスの悲劇の探検隊はロイヤルパークを出発点としている。公園内に記念碑がある。
バークとウィルスの悲劇の探検旅行

ロイヤルパークは、軍事目的でも使われたことがある。第一次と第二次大戦では豪州軍の訓練場としてまた米軍が駐留したこともある。米軍のマッカーサー将軍はフィリピンを脱出後、1942年3月19日にメルボルンに到着、コリンズ通り401−403番地に米国陸軍極東司令部を置きロイヤルパークで訓練を実施していた。


特にキャンプペル(Camp Pell)と呼ばれる軍事施設があった。キャンプペルは、フロイドペル少佐(Floyd Pell)に由来する。ペル少佐は、1942年2月19日、豪州北部のダーウィンへの日本軍の最初の攻撃で戦死している。
当時のダーウィンは、アメリカ製カーチスP−40キティーホーク戦闘機が主力で、ベル少佐が戦闘機隊を率いていた。対する日本軍は、零式艦上戦闘機二一型。性能で劣るP−40はゼロ戦に対して劣勢であった。
CAMP PELL

 広大なロイヤルパークの中には各種のスポーツ施設が点在する。
ネットボールの聖地である州ネットボール・ホッケーセンター、サッカー競技場、野球場、クリケットオーバル、サイクリング場などがある。
McAlister Oval
Ransford Oval
Western Oval

North Park Tennis Club
Royal Park Golf Club
Royal Park Touch Association
Melbourne University RFC, Royal Park
Royal Park Brunswic Cricket Club, Royal Park

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