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グリニッジ桟橋 Greenwich Pier

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 鉄道の歴史

2018年5月31日(木)
グリニッジ桟橋(Greenwich Pier)
ニューポート Newport  
メルボルン Melbourne
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グリニッジ桟橋(Greenwich Pier)は、ジーロン・メルボルン鉄道会社(GM社)により一時的な桟橋として1857年に建設された。同社は、メルボルンとジーロン間に鉄道路線を開設する為に1852年に設立された。メルボルン・マウント・アレキサンダー・マレーリバー鉄道会社(MMA:Melbourne, Mount Alexander and Murray River Railway Company)によってメルボルンとウィリアムズタウン間に民間鉄道路線を開設する計画に連動したものであった。ふたつの路線が交差する場所がグリニッジ(後のニューポート)であった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 中央部重点平均測光 絞りF9.0 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日15:19 板屋雅博 撮影

MMA社(経営者:Mr.R.Coy)は1856年に資金難に陥り、ビクトリア植民地政府が事業を継承してビクトリア鉄道公社を設立した。メルボルン・ウィリアムズタウン鉄道路線は、ビクトリア鉄道による最初の路線となり、1859年1月にオープンした。GM鉄道のジーロンからグリニッジまでの客車路線は1857年6月25日に開通したが、MMA社のメルボルン・ウィリアムズタウン線がまだ開通していないので、MMA社は、独自で暫定路線、駅、桟橋の建設を実行した。一時桟橋と路線開設コストは、6000ポンドであった。桟橋は、メルボルンからジーロンへの旅客を蒸気船でグリニッジまで運び、鉄道列車に間に合うように設定された。


 1857年6月27日のアーガス紙には鉄道がオープンしてジーロンでの式典に向かう旅客が蒸気船でグリニッジに到着し列車を待つ様子が描かれている。桟橋は、1858年のホブソンズ湾の地図に載っている。暫定路線とグリニッジ桟橋は、長くは使用されなかった。当時の地主George Ward Coleは、GM社に対して土地の使用差し止め訴訟を起こした。同社は、1857年9月にビクトリア政府よりグリニッジとウィリアムズタウンの間にメルボルン・ウィリアムズタウン路線の使用許可を得た。



 暫定的な駅舎がウィリアムズタウン鉄道桟橋に完成し、蒸気船シチズン号(steamer Citizen)が列車に間に合うように運行された。1879年のメルボルン港の地図にはノースロード(North Road)とニューポートの路線が乗っている。場所は、現在のグリニッジリザーブの場所である。メルボルン港湾局(Melbourne Harbor Trust)は、1878年にグリニッジ湾の浚渫を開始し、1900年代まで継続した。1886年にメルボルン港湾局幹部は、ウィリアムズタウン北側の桟橋宿泊施設が無いことに注目し、旧グリニッジ桟橋の再活用と拡張を計画した。ヤラ川の流路変更つまりコード運河(Coode Canal)建設の一環として実施された。メルボルン港湾局1886年白書による。
 
1892年のメルボルン港計画ではニューポート桟橋がグリニッジ桟橋の場所に描かれている。1924年の土地改良計画では港改善計画の一部として示されている。1944年1月22日のアーガス紙に記事がある。暫定グリニッジ桟橋と鉄道線は、フジツボで覆われた柱が数本あるだけで現在、グリニッジリザーブとグリニッジ湾の東側に沿って存在している砂だらけの陸地であった。

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コックスの1864年の計画では桟橋は船のバランスを取る為の積み込み用に1844年からトラム用道路経由で石切り場に繋げられていた。
グリニッジ桟橋は、1853年にジーロン・メルボルン鉄道の短い分岐線につなぐ為に建設された。しかし1857年の労働争議の為に、ニューポート駅で終結した。旅客は駅まで歩くことを強いられた。



 このため鉄道分岐線は、撤去され、鉄道運輸は路線が延長されて、ウィリアムズタウンの臨時駅で接続された。桟橋が旅客ターミナルとして使えないことが、バラスト交易を再開したように見える。1879年のプラン図によると、グリニッジ桟橋はL字型の構造をしたウィリアムズタウン蒸気船フェリーの南側に隣接して位置している。この構造は、1894年の図面にも載っており、バラスト用桟橋と記入されている。バラスト用桟橋は、古い訓練用堤防に接続されていて小さなハーバーの囲み又はドックを形成している。この頃、この地区は大規模な土地改良工事の最中であった。ハーバーの半分は、海軍訓練用堤防の後ろ側を埋立していた。

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