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オーストラリア商業銀行 ウィリアムズタウンの歴史 その1

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ウィリアムズタウン

Williamstown(wiki)

メルボルンの銀行

Commercial Bank of Australia(VHD) wiki コリンズ333

2020年10月31日(土)  responsive版
オーストラリア商業銀行
Commercial Bank of Australia
ウィリアムズタウン Williamstown
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

Commercial Bank of Australia,
住所:193 Nelson Place, Williamstown
設計:Smith & Ogg
建築年:1892年
建築様式: 後期Italian Renaissance Revival
商業地区中心部であるネルソンプレイスの第三主要銀行として建設された。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 中央部重点平均測光 絞りF6.3 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日12:14 板屋雅博 撮影


最初にウィリアムズタウンにやってきたヨーロッパ人は、チャールズロビン船長(Acting-Lieutenant)であった。ロビン船長は、調査チームと1803年にジェリブランド岬(Point Gellibrand)を調査した。ヤラ川の河口は、1835年にジョンバットマンの一行により調査された。ウィリアムズタウンの場所は、バットマン一行により仲間の船長の名前を取ってポートハワード(Port Harwood)と名付けた。
1835年11月、ボブソン・コルティッシュ(Captain Robson Coltish)船長は、バルク船(barque)ノーベル号(Norval)がタスマニアのロンセストン(Launceston)からバス海峡を越えて、500頭の羊、50頭のヘレフォード種(Hereford)の牛を積んで、荷主はアレクサンダー・トンプソン(Alexander Thomson.)であった。


 フィリップ湾の沿岸部に到達した後、コルティッシュ船長は、現在のポートジェリブランドに着岸して、荷物を下ろした。最初の船の着岸から数週間で、タスマニアから多数の本戦がウィリアムズタウンへやってきた。懐が深い良港があり、新たにやってきた人々はウィリアムズタウンの近隣に定住した。リチャードバーク総督とウィリアム・ロンズデール船長は、ジェリブランド岬の定住地は、ヤラ川の河口にあり、名前を英国ウィリアム四世王(King William IV)からウィリアムズタウンと名付けた。ウィリアムズタウンは、フィリップ湾の最初の停泊地となり、19世紀後半まで主要港湾として活躍した。

 
 ウィリアムズタウンは、ジーロンとメルボルンと共にビクトリアの首都候補と目されていた。ウィリアムズタウンは、本戦停泊地として最適であったが、メルボルンは飲料水が豊富であった。ウィリアムズタウンは、新しい植民地の主要港であり、ウィリアムズタウンの最初の通りは1837年に作られた。最初の公的な土地の売り出しは1837年に行われた。30mの石造りの桟橋は1838年に囚人労働者によって建設され、現在のジェム桟橋となった。1838年にメルボルンとウィリアムズタウンの間で蒸気船によるフェリー船ファイアーフライ号(Fire Fly)の運航が始まった。ファイアーフライ号は、タスマニアからの旅客、羊、牛を輸送していた。

 
灯台(後のタイムボール)は、1849年〜50年に建設された。最初の灯台は、木造で灯油でビーコンを灯すもので、ジェリブランド岬に1840年に建設された。1840年にはウィリアムズタウンに水上警察隊が配備された。ウィリアムズタウンは現在もビクトリア州水上警察隊の本部が置かれている。1860年にシェリービーチ沖にパイル灯台が設置され、その後はウィリアムズタウン灯台はタイムボールタワーとして使用された。ウィリアムズタウンは、1851年のゴールドラッシュまではビクトリアの主要植民地であったが、しかしその後は金鉱山を目指す移民が増えた。英国コーンウェル地方の錫鉱山(tin mines of Cornwall)やカリフォルニアゴールドラッシュ終了後の人々がやってきたが、一時的なものであった。

最初のウィリアムズタウン郵便局は、1850年3月に開設された。1853年に天文台( astronomical observatory)とタイムボールタワーがジェリブランド岬に建設された。タイムボールタワーは、メルボルン天文台が建設された際に、メルボルンのキングスドメインに移設された。豪州最初の電信線がメルボルンとウィリアムズタウンの間に1854年3月3日に敷設された。この時、タイムボールは、ジェリブランド岬の電信局に移設された。ビクトリア最初の地方紙であるウィリアムズタウンクロニクル新聞が1854年に作られた。ウィリアムズタウンフリーメーソン支局が1854年に作られた。



豪州最初の鉄道線は、メルボルン・ホブソン湾鉄道会社(Melbourne & Hobson's Bay Railway Company)が1854年に出来、フリンダース駅からサンドリッジのポートメルボルンまで開設されたが、ほどなく倒産し、ビクトリア植民地政府によって引き継がれた。豪州における最初の政府経営の鉄道線は、ジェリブランド岬駅からスペンサー通り駅までであった。当時スペンサーストリート駅は、メルボルン西端にあり、ゴールデンマイル(golden mile)と呼ばれた。

 
 1855年にジェリブランド要塞(Fort Gellibrand)に建設されたが、クリミア戦争の際であり、ロシアの侵略に備えたものであった。ジェリブランド要塞は、60年後の第一次世界大戦の際にも兵士の訓練地として使われた。ウィリアムズタウンのホテルは最初は2軒であったが、1864年には17軒に増加した。1856年にはビクトリアヨットクラブが設立され、ホブソン湾でのセーリングが人気を呼んだ。


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