2020年11月23日(月) responsive版
ウィリアムズタウン税関
Williamstown Customs House
ウィリアムズタウン Williamstown メルボルン Melbourne
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ウィリアムズタウン税関は、ウィリアムズタウン第二の税関建物として1873年-75年に建設された。メルボルンの水深が浅いヤラ川内の港に比べると、海に面して水深が深いウィリアムズタウン港を活用して大型外洋船が着岸できるために、メルボルンの主要港として重要な役割を担った。
撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 中央部重点平均測光 絞りF5.6 1/125秒 ISO感度 100 露出補正 オート
JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日13:23 板屋雅博 撮影
税関建物は、税関や船長事務所として継続的に使用され、現在も威厳を保っている。
ウィリアムズタウン税関の設計は、ピーター・カー(Peter Kerr)が行い、大御所であるウィリアム・ワーデル(William Wardell)の設計思想を引きついだ。公共建築物は出来るだけシンプルであるほどその影響は永続的であると建築思想である。
Williamstown Mechanics Institute VHD
建物のプロポーション(building's proportion)、ファサードのデザイン性(facade articulation)、詳細な装飾は、ウィリアム・ワーデルの時代に最高潮に達したものを代表している。公共の建物に適した建築様式として植民地政府公共建築局(Public
Works Department)にイタリアン様式が採用されている。
詳細設計は、同時期の公共建築局の他の建物と類似しているが、構成や高い詳細デザインの高いクオリティはこの建物に独特のものである。
ウィリアムズタウンは、1919年5月17日に市となった。1818年にウィリアムズタウン・タウンホールが建設されたが、1927年にオープンした。1919年にメルボルンは、恐ろしい(dreaded)スペイン風邪(Spanish
flu,)に襲われた際には、ウィリアムズタウン小学校は閉鎖され、臨時の疾病対策病院として使用された。1920年にウィリアムズタウン鉄道路線は電化された。ウィリアムズタウン水泳ライフセービングクラブが1922年に設立された。同クラブハウスはウィリアムズタウンビーチの西端に1935年に建設された。ウィリアムズタウン・フットボール・オーバルに隣接した海浜公園に位置して、ウィリアムズタウン・ローンテニスクラブパビリオンが1928年にオープンした。
1930年にロイヤル委員会は、ウィリアムズタウン市行政の政策に対して、問題点があることを指摘した。1933年に、ウィリアムズタウン・ニューポート釣りクラブ(Williamstown
and Newport Anglers Club)が作られ、ネルソンプレイス221番地にクラブハウスを賃貸で構えたが、1935年に隣に移転した。1939年にエスプラネード通りに政府から土地を与えられて、1941年にクラブハウスがオープンした。翌年に桟橋と釣り船用の傾斜路が建設された。
1937年に旧灯台であるタイムボールタワーは、上部に丸い煉瓦製タワーを設置して高さ9.1mに高くされた。延長部分は、アルミニウムの粉でコーティングを施された。ポートジェリブランドパイル灯台(Point
Gellibrand Pile Light)の後ろにあった都市灯台(light of the City )に対して特異点(singularity)が無くなったことから、灯台として再建された。電気式で、緑、赤の光を点滅させた。15海里(
nautical miles)の距離からも見ることが出来、1934年から87年まで操業した。
ウィリアムズタウン競馬場のレースは、1940年で停止された。MCGメルボルン・クリケットグラウンドと同様に独自の運営で行われた。第二次大戦後にレースは再開されたが、火事によってふたつのグランドスタンドが崩壊した。1945年にビクトリア・フットボール連盟のグランドファイナルでポートメルボルンを破って優勝して、ウィリアムズタウンフットボールクラブは全盛期を迎えた。16年で10回のグランドファイナルでの優勝を遂げた。
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