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4000名の悲劇の少女たち Irish Famine orphan girls shipped to Australia 23.3.12

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ウィリアムズタウン

Irish Times  famine rock

IRISH FAMINE EXHIBITION

データベース

海事博物館

Lady Kennaway

3rd Earl Grey

Great Famine 和文

NSW歴史博物館

2023年2月12日(日)  responsive版
Famine Rock アイルランド移民 飢餓の岩
Irish Famine orphan girls
ウィリアムズタウン Williamstown
メルボルン Melbourne
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1848年から50年にかけて、約4000名の10代の身寄りのない若い女性がアイルランド全土から集められオーストラリアへ送られた。彼女たちは二度とアイルランドへ帰ることはなかった。

撮影データ iPhone XR
絞りF1.8 1/945秒 ISO感度 25 
2022年8月18日13:17 板屋雅博 撮影



1845年から49年にかけてヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、ジャガイモ飢饉と呼ばれる壊滅的な被害を受けた。当時、アイルランドは大英帝国の一部であり、多くの土地は地主はイングランド人であり、大飢饉のさ中にも食料を英国に輸出を続けた。餓死者は100万人に上り、200万人以上が国を離れて主にアメリカへ移民した。アイルランドの人口は、30%が減少したと云われている。英国は、アイルランド戦国に救護院を設置し、身寄りのない老人や子供たちを集めた。
当時の英国植民地大臣であったアールグレイ卿(第三代)が少女たちの豪州への移民であった、12際から二十歳までの健康な少女だけを集めて、英国の豪州植民地、メルボルン、シドニー、アデレードへ送り込んだのである。

orange


 総数は4000名を超える。1848年から1850年までの3年間で総数は4000名、そのうち1700名がメルボルンであった。
の事件は、アールグレイの策謀として知られている。植民地大臣の父は、紅茶で有名な第二代アールグレー卿。


アイルランド全土の32の州にあった救護院から選抜された。ひとつの目的は、人員過剰であった救護院の人数を適正数に減らすことであったが、若い女性の労働者が必要であった豪州植民地の需要を満たすためであった。
 
最初の1一隻は、レディーケナウェイ号で190名の少女たちをメルボルン郊外のウィリアムズタウンに1848年11月11日に到着した。港町ゴールウェイ(Galway)、 メイヨー(Mayo,) 、スライゴ(Sligo) 、ドニゴール(Donegal)などの県から来ており、多くはゲール語(Gaelic )を話した。
少女たちを待っていたのは、アイルランド人への偏見、差別、虐待などであった。
14歳から19歳の若い女性であり、豪州では召使などで働いて、若くして結婚している。新しい植民地である豪州の人口増大に貢献している。
大飢饉によって100万人が死亡し、200万人以上が飢餓から逃れる為に、国外に脱出した。




当時のメルボルンはシドニーは、粗野な男性ばかりの植民地であり、アールグレイの陰謀とは植民地に「安定化」をもたらす目的であった。
Pemberton, the Lady Kennaway, Diadem, New Liverpool, Derwent and Eliza Carolineである。
ウェブサイトThe Earl Grey Schemeがあり、6船の乗客リストやみなしごのリストがある。研究員は膨大な情報を提供している。


アールグレイの策謀の期間に、シドニーのハイドパーク兵舎(Hyde Park Barrack)には2253名の少女が寄宿していた。



 この碑は、レディ・ケナウェイ号に乗って191人のアイルランドのみなしごの少女たちがホブソンズ湾に到着した150年目を記念して1998年12月6日にリチャードオブライエン、アイルランド大使とブラッド・マセソン市長の列席の元に建立された。

Famine Rock
Melbourne Irish Famine Commemoration Group


Monumenti Australia
 
当時の主要新聞であったアーガス紙の専門家によると、1850年4月4日付けの記事では、「アイルランドからまた女性の移民者を乗せた船がメルボルンの岸壁に到着した。少女たちは、やってくる怪物的な苦しみ(monstrous infliction)に対して叫んでいた。
同年4月24日付け同紙記事では、
市民の抗議の声として、「ビクトリア植民地社会は、教育が無い(degraded beings)みなしごの少女たちであることが判明して、これ以上の入国(admission)には強く抗議する(cry out)。
この低いクラスの少女たちは、メルボルンの富裕層の良い召使にはならない、農家にとっても良い労働者にもならない、高潔な勤勉な(virtuous, and industrious)若い少女ではない。労働者階級の妻には適切だろう。
不法行為(iniquity)の洪水(floods)に対して強い障壁が導入され、メルボルンの多くの公共大通り(thoroughfares)から道徳規範(morality)を一掃する


にも拘わらず(Nonetheless)、多くの少女たちは、豪州で結婚して家族を築き、新しい植民地の厳しい条件の中でたくましく生き抜きて行った。多くの少女たちは新大陸豪州で20世紀の夜開けを迎えた。

この話は史実であり少女たちの名前や生涯はデータベース化されており、多くの政府系サイト、研究者のサイトで検索できる。


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