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HMASシドニー HMAS SydneyU

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2008年4月30日(水)
HMASシドニー(沈没 生存者無し) 
HMAS SydneyU (Lost)
アンザックデー ANZAC DAY
プリンセス橋 Princes Bridge
メルボルン Melbourne
この場所の地図Google Map 

今日のメルボルンは、晴れ時々曇りの天気で、気温は15度ほどでした。
朝晩は、もう真冬なみの天気です。
これから6月の冬至まで更に朝晩は、暗くなっていきます。

昨年の今日2007年4月30日(チャーチ通り橋

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 豪州戦史上最大の悲劇と言われているのが、HMASシドニーの沈没です。

HMASは、Her Majesty's Australian Ship
女王陛下の豪州海軍の意味です。
英国海軍の船舶は、HMS,女王陛下の海軍の意味です。国王の場合も、HerがHisに置き換わるだけで、HMS又はHMASは変わりません。豪州海軍も英国王室をトップに頂いていいることを明確に示しています。
即ち英国海軍と豪州海軍は、どちらも英国女王をトップに頂く兄弟の海軍と言えます。
豪州海軍の正式名称をRoyal Australian Navy と言いますが、この場合のRoyalも、英国王室を意味しています。

キャプテンクックの調査船は、HMSエンデバー号です。


 HMASシドニーは、英国イングランドで1934年9月22日に竣工し、1935年9月に実戦配備されています。10月には豪州へ向けて出向しましたが、同年のイタリアのエチオピア侵入により地中海で英軍のサポートに当たります。その後、1936年に豪州に到着しました。
1939年第二次世界大戦が勃発し、シドニーは、インド洋での掃海任務にあたります。同年イタリアの参戦により、シドニーは、地中海へ英軍の援軍に派遣されます。1940年スエズ運河を通り、エジプトアレクサンドリアの第7巡洋艦艦隊に配属になります。
地中海での配備中にイタリアの巡洋艦『エスプレッソ』や駆逐艦数隻を撃沈しています。地中海での華々しい活躍のあと1941年2月に西豪州フリーマントルに戻ってきました。


  1941年11月19日午後4時ころ、HMASシドニーは、西豪州シャークベイの西海上で、オランダ国旗を揚げる不審な商船を発見します。この商船は、実は偽の国旗を掲げるドイツの仮装軍艦コルもラン(Cormoran)でした。HMASシドニーはうかつにも1000m以内の近距離に近づき、コルモランの魚雷を含む一斉射撃を受けました。コルモランもまた被弾により被害を受け、総員退去、沈没に至りました。
HMASシドニーは、短時間の浸水と沈没により乗員645名は、ひとりも生き残ることが出来ませんでした。
シドニーの最後は、生き残ったコルモランのドイツ兵によってだけ語られています。
その後、長い間HMASシドニーの沈没の場所が不明のままに悲劇として語られてきました。

HMASシドニー沈没場所

 今年2008年3月12日、豪州政府と民間の390万ドルの資金によりHMASシドニーとコルモランの残骸が発見されました。
発見したのは、アメリカの沈没船ハンターです。
今年のアンザックデーを前にしてHMASシドニーの発見は、豪州国民の注目を集めた事件です。
HMASシドニーの引き上げには賛否両論がありますが、今だに第二次世界大戦の爪痕が残っています。

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