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愛知サムライ隊

現代に蘇るサムライ 愛知サムライ隊

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2010年7月19日(月)
現代に蘇るサムライ
愛知サムライ隊
ビクトリア州−愛知県友好30周年記念
財務省公園 Treasury Gardens
メルボルン Melbourne
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トレジャリーガーデンに愛知のサムライ隊が集結。火縄銃など本物のサムライの姿をメルボルンで披露した。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 AWB JPG レンズ EF 24-70 mm f/2.8L USM

 愛知県は、東西日本の中間に位置する。古来多くの武将が関東と京都の間を往来した。
平安時代の起源1000年頃に、源氏、平氏などの武士団が関東・鎌倉に発生。東海道、中山道の拠点名古屋地区には、熱田神宮を中心として多くの情報と富が蓄積されていった。鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったが、頼朝の実母は、熱田神宮の大宮司の娘。頼朝の父方の河内源氏に熱田神宮の大きな援助や影響があった。

 室町幕府を作った足利高氏も同じ河内源氏。河内源氏の流れを汲んだ八幡太郎源義家の家系が足利氏となった。新田義貞の新田氏も同じ河内源氏の血筋。
足利氏は代々、愛知三河の守護職を務めている。足利氏からは、細川氏、斯波氏、渋川氏、一色氏、畠山氏、吉良氏、今川氏などの戦国時代に東海地方などで活躍した多くの武門の家系を生みだしている。
戦国時代も終わりの頃になると、名古屋で良く言われる『三傑』の時代を迎える。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人ともに愛知の出身。
起源800年頃から1860年頃までの約1000年間、武士の時代が続いた。
この間、多くの武将が愛知で生まれて活躍。京都から関東の東海道を基軸として多くの武門の家系を生みだしたが、愛知県にトップクラスの戦国武将が出現している。
 
 誓子を読む征夷大将軍、徳川家康。

織田信長が使用した鉄砲は、それまでの戦争を決定的に変えている。
火縄銃の命中率は、非常に高く30mの距離での命中率は60%に及ぶ。致命傷ではなくても敵兵の戦闘能力はほぼ無くなる。
火縄銃は、ある程度の修業を積めば、1分間に2回は発射可能。熟練者になれば、1分間に4回、発射できる。雨天の場合には、江戸時代から伝わる特殊な加工をした火縄を使用する。火薬に水滴が落ちないように工夫をして発射する。
信長が用意した鉄砲は、3000丁。
命中率を30%としても1回の斉射で、1000名の戦闘能力を無くすことができる。武田勝頼軍の騎馬隊など15000名が計算上は、数時間で殲滅できることになる。実際の戦闘も武田軍は、約8時間で12000名の犠牲者を出している。
 
 社団法人日本甲冑武具研究保存会の甲冑師、熱田伸道氏(本名:小川伸夫氏)が制作する甲冑は、一式で30万円から。手の込んだ甲冑は、一式150万円ほど。
実際に来て活動できるタイプは、比較的軽く出来ていて6kgほど。
火縄銃は、全て明治以前の制作で、文化財に登録されたものだが、日本甲冑武具研究保存会のメンバーになれば、一丁30万円ほどで購入可能。
神田県知事から、ブランビー首相へ贈呈された、冑2頭、『織田信長』と『本田忠勝』は、1頭60万円相当のもの。これは戦国当時の本物の復刻版であり、現代のサムライが着用して活動するには少々重すぎる。

 
 現代によみがえるサムライたち。
日本での火縄銃の発射は、警察の許可取得が難しいが、名古屋城、長篠設楽ヶ原などの古戦場での演技にのみ許可されている。
日本甲冑武具研究保存会は、サムライの伝統を勉強して守ることを旨としている。
火縄銃、甲冑などは戦闘の道具だが、平和の守りとしてサムライを勉強、保存している。愛知県でのサムライ隊の活躍に期待したい。


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