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メルボルン カップ  2011

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2011年10月30日(日)
ファッションオンザフィールド(競馬場のファッション)
メルボルンカップ Melbourne Cup
フレミントン競馬場 Flemington Racecourse
メルボルン Melbourne
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メルボルンカップは、11月1日(火)にフレミントン競馬場で開催される。メルボルンカップといえば、華やかなファッションがつきもの。その歴史を追ってみた。

撮影データ Canon EOS 5D MarkUプログラムAE 絞りF5.6 1/200秒 評価測光 ISO感度 100 露出補正AWB JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 撮影:板屋雅博
撮影:2010年のコックスプレートにて。

ファッションコンテストの司会者とプレゼンテイター

メルボルンカップは、今年で151回目となる。メルボルンは、1835年に移民が開始されたが、その26年後の1861年に第一回目のメルボルンカップが行われている。

メルボルンカップにファッションコンテストが導入されたのは、1962年のこと。その前年の1961年は、メルボルンカップ100年記念の式典が行われた。
その際に、たくさんの女性ファンを集めるためにファッションと花で記念式典を盛り上げた。

 
メルボルンカップファッションといえば、派手な帽子が特徴。コンテストの優勝者。

最初のファッションコンテストのテーマは、メルボルンカップに来場した女性の中から、最も格好良く着こなした女性を探すというもの。また服装には一定の金額の制限が付けられていた。コンテストの賞品、賞金は、総額7000ポンドであった。
女性ファッションコンテストには、ふたつのカテゴリーが設けられた。
ひとつは、ドレスの価格が30ポンド以下と50ポンド以下のクラス。
一等賞は、1400ポンドの価値があるイギリスへの往復船のチケットであった。

ファッションコンテストの審査員。ファッション界の大御所(中央)、新聞社、ファッション雑誌の編集長が審査員を務める。

ファッションオンザフィールド(競馬場のファッション)は、すぐに大衆の支持を得た。新聞のトップを飾るようになり、メルボルン市民の間で急速に広まっていった。
メルボルンカップ組織委員会でさえも理解していなかったが、ファッションオンザフィールドは、メルボルンカップ自体の性格をも決定的に変えていった。

1960年代
毎年、新しい趣向が取り入れられ、メルボルンカップファッションコンテストは進化を続けた。
有名人がファッションコンテストの審査員を努めるようになり、メルボルンの主要なデパートなどがスポンサーとなり、賞品や賞金が高額になっていった。

 
バラの花をモチーブにしたドレスと帽子。

ファッションを際立たせることによりメルボルンカップの社交的な側面を強調することには、ビクトリア競馬クラブ(VRC)の重鎮からは反対論も強く残っていた。
ヘラルド誌の競馬主任であったジャックエリオット氏は、VRCは、競馬自体にもっと焦点をあてるべきだと強く批判している。

ジャックエリオット氏は、AFLのカールトンのオーナーを長く務めた人物で、筆者(イタさん)も何度も会ったことがあります。

1965年に世界のファッション界にとって大きな事件が発生した。

英国の有名なファッションモデル、ジーン・シュリンプトンがメルボルンカップに参加した。その際のファッションが大問題を引き起こした。膝上10cmの当時としては超ミニで、帽子、手袋、ストッキングも未着用という当時の伝統的なファッションからは許されないファッションで登場した。ミニスタイルを世界で初めてファッションシーンに持ち込んだ事件であり、世界中がメルボルンカップに注目することとなった。
ミニスカートが世界で初めて注目された事件として有名になった。

ジーン・シュリンプトン
 
 1970年代は、オーストラリアは不況の時代に突入した。
スポンサーの撤退により、ファッションオンザフィールドも大きな打撃を受けた。
大掛かりなファッションコンテストは開催されなかったが、何とか生き延びて開催を続けた。
1972年には、ファッションオンザフィールドの代わりにVRCクラブ主催のファッションコンテストがメルボルンカップシリーズの最終戦で開催された。
全オーストラリアのファッションコンテストの最終決定戦がメルボルンカップで行われるようになったのもこのころ。


1972年、1975−77年には、10人のエレガントな女性コンテストを主催。サン誌は、ファッションダブルと称して、最もスタイリスティックな男女のカップルを選んだ。
ポラロイドの写真フィニッシュステークス、マイヤーの『今日のガール』などのイベントが行われた。

1980年代に入って経済の繁栄と共にファッションオンザフィールドは、完全復活する。賞品や賞金も順調に拡大を続けた。報道発信も増え続けた。有名人や関係者も多くフレミントン競馬場へ詰めかけた。
 
 1980年代には、コンテストは、クラブメンバーに限らず誰でも参加できるオープン形式となった。大きな賞金が掛かるため、
審査を厳格化する目的で、ドレスの制作費用にも領収書などの添付が求められた。このころのスポンサーは、シュウェップスや、フレッチャージョーンズ。賞金は、20,000ドルに達した。1980年代中旬にマイヤーがメジャースポンサーとして登場。それから今日までマイヤーがメルボルンカップファッションコンテストの代名詞となっている。
マイヤー自身がファッション業界にいるので、マイヤーから審査員を出すことはない。TAA、倒産したアンセット航空、ユナイテッド航空などが協賛スポンサーとなった。1980年代の後半に賞金は30,000ドルに達した。コンテストの参加者は、200名に達している。1989年にドレス製作費の制限は撤廃された。

代わって新しいカテゴリーが導入された。
『オープン』クラス、『招待デザイナー』クラス、『ファッションドレス』一般クラス、『帽子コンテスト』クラス、『ヤングコンテンポラリーファッション』若い女性クラス、『一般デザイナー』クラス、『クラシックレースドレス』クラス、『クラウン帽子』クラス、『クラウンカーニバルドレス』クラス、『クラシック帽子』クラス。
ファッションオンザフィールドは、マイヤーと協賛スポンサーのお蔭で1960年代の輝きを取り戻した。
 
1990年代にクラウンカジノがスポンサーとして登場した。1997年にクラウンが命名権を獲得。デビッドローレンスと共にファッションオンザフィールドに名前を飾った。賞金も一気に10万ドルに達した。賞品もカップルにパリ、タヒチ、香港旅行などに豪華になった。ファッションと共に高額の賞品、賞金がオーストラリア中の女性を引き付けるようになっていった。
Milliner to the Queenなどのテレビ番組なども収録されるようになり、マスコミとの連携も更に強力になっていった。


■Melbourne Cup
会場:Flemington Racecourse(400 Epsom Rd., Flemington VIC)
日程:11月1日(火)、3PM出走
Web: www.melbournecup.com
   src.racingvictoria.net.au



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