2017年12月24日(日) ザフォールズ the Falls クイーンズ橋 Queens Bridge ヤラ川 Yarra River メルボルン Melbourne
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クイーンズ橋の場所には、メルボルンの初期のころザフォールズ(the Falls)という滝があった。ザフォールズから上流は真水であり、メルボルンの最初の植民は、この真水があったから始まった。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/160 F10.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2017年1月21日17:06 板屋雅博撮影
turning basin
クイーン橋は、マーケット通りの延長線上にあり、1860年に以前にあった木製の歩道橋であるフォールズ橋(Falls Bridge)を架け替えた橋である。
現在の橋の構造は、植民地政府公共建設局、港湾桟橋沿岸建設部(Harbour Jetties and Coast Works Department)の主任デザインエンジニアのFrederick M Hynesが設計した。建築請負は、プリンセス橋やサンドリッジ橋を建設したデビッド・ムンロー(David Munro)である。クイーン橋は、1890年4月18日に総督ロード・ホープタウン(Lord Hopetoun)によって公式にオープンした。
wikipedia Melbourne's Williams Creek
VHD Melbourne from the Falls
クイーン橋は、ヤラ川の少ない隆起と降下を反映して非常に平坦なアーチ橋である。5スパンの連続した鋳物製橋げた構造であった。橋は、コンクリートを満たした8本のアーチ形支柱の鉄製のシリンダーの上に建てられている。橋台は、玄武岩とストーウェル(
Stawell)産のフリーストーンで作られている。クイン橋は、鋳物製の装飾用欄干があり、欄干の下には反転した葉状のコンソールがある。
メルボルンは滝、ザフォールズ(the Falls)から始まった。ザフォールズはヤラ川の上に1mほど突き出た玄武岩質の岩棚でヤラ川を対岸まで横断していた。海からの上潮も届からない1mほどの高さがあった。ザフォールズは、1880年代にクイーン橋を作るために撤去された。現在でも橋のたもとの川の中にいくつかの当初の岩を見ることが出来る。
ザフォールズがメルボルン町の中心であったことは、数々の絵画に表れている。メルボルンの中心部を流れるヤラ川(Yarra)は、アボリジニ種族の言葉で、ザフォールズを意味する単語であった。ウィリアム・トーマス助教授によるとザフォールズは、メルボルン地区に住むアボリジニ種族にとって、ヤラ川南のサウスバンク地区の人々と北側の人々が少なくとも年に2回、会合や祭りを開くための集まりの場所であり、非常に重要な場所であった。
サウスバンクとノースバンクを結ぶヤラ川にかかる天然の橋によって、上流側が真水、下流側が海水と交わる汽水であった。この場所は、地理的にも植物学的にも上流と下流を環境的に分断していた。どの方角にも少し歩けば、草原が広川、また木々が生い茂っていた。北西上流側には3kmほどの平坦な沼地が1000エーカー以上も広がっていた。真中には広い楕円形の浅い池があった。初期の植民者たちは、美しい青い透明の池と読んだ。
ザフォールズの南側の川とメルボルン湾の間の地帯(現サウスメルボルン)は、約6.5kmに渡る沼地があり、いくつもの池があった。アルバートパークの池もそのひとつである。ポートメルボルン地区にも大きな池がいくつもあった。現在のメルボルンシティは、多少の木々が生えているバットマンヒルのような場所もある、水はけの良い草原地帯であった。北西地区は、田園地帯であった。t
1837年の政府高官のロバート・ラッセル(Robert Russell)のスケッチ。
中央にザフォールズが見える。
メルボルンはザフォールズで始まった。とある。
‘Melbourne from The Falls’.
初めてメルボルン湾を本格的に調査したのは、ニューサウスウェールズ植民地測量主任であったチャールズグリム(Charles Grimes)船長である。
チャールズグリム船長は、1803年1月にメルボルン湾に入り、1803年2月2日にヤラ川の河口を発見している。当時のヤラ川は、自然のままの小さな川で、周辺は芦などに覆われた湿地帯であった。
2月3日には自らを隊長とする数名の調査体を編成し、小型手漕ぎボートで、ヤラ川をさかのぼり、デイツフォールズ滝(Dights Falls)まで到達している。
尚、Dightsは、1839年にこの近くで、メルボルンで最初の水力粉ひき小屋を建てたJohn Dightに由来している。グリム船長の一向は、ザフォールズを超えてデイツフォールズ滝まで到達している。
デイツフォールズ滝
1837年ころのスケッチ。町が急速に発展している様子がわかる。町の主要な建物がまだ建設されていないのがわかる。税関や荷揚げ用岸壁などもまだ建っていない。
ザフォールズを男たちが渡っているのがわかる。
ザフォールズがより鮮明にわかるスケッチ
Meyer Eidelsonは、彼の著書The Melbourne Dreamingの中で、ザフォールズは西欧人の移民以前から重要であった。
1838年のメルボルンの画像
ビクトリアへの移民はかつてモーニントン半島のソレントに定住を試みたが、真水の入手が出来ない為に失敗に終わっている。
ザフォールズは、上流からの真水を汽水から守り、移民定住者たちに飲用水を供給する点に大きな枠割を果した。
まさしくザフォールズがメルボルンの定住を可能にしたと云える。
1838年の絵画、作者不詳
手前側の草地では子供たちが遊ぶ英国風の植民地であった。
エレノア・マクグリン(Eleanor McGlinn)の1840年頃の風景画である。出典は、 Maree Cooteの本(Art of Being
Melbourne)。
現在のエリザベスワーフ周辺に帆船が3隻停泊している。この当時、メルボルンはヤラ川の港であった。
ザフォールズによって海からの潮流がこの場所で堰き止められることによって、ヤラ川のこの部分の水深がかなり深くなり、その後1880年代にこの場所に大型船が回頭したことから、旋回湾(
Turning Basin)と呼ばれることになる。大型船が入港でき物資の荷揚げが可能となった。
ロバートラッセルの1844年頃の絵画。
中央部にはメルボルン税関が建っている。その手前には英国からやってくる帆船から輸入貨物を荷揚げする埠頭がいくつか並んでいる。
旧メルボルン税関
1858年の写真。中央にザフォールズ。
20年で風景が一変したのがわかる。
クイーンズ橋の南詰めのたもとから撮った画像。
ザフォールズの残った石が残っている。
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