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ヤラ川@

へリング島 Herring Island

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2008年4月3日(木)
へリング島 Herring Island
ヤラ川のチャーチ橋から上流部分
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

へリング島は、ヤラ川にある唯一の中ノ島です。夏場のみ左の画面の場所からへリング島へ渡し舟が出ます。
片道おとな$2です。

昨年の今日2007年4月3日(インペリアルホテル 

へリング島は、期間限定の渡し舟だけが訪問する、人が住んでいない島です。その為に、野鳥の楽園になるなど、その自然が良く守られています。

 へリング島の西側(下流方)の先端。
へリング島は、昔は近くにコモハウス(Como House)などがあることから、コモ島(Como Island)と呼ばれていましたが、1952年にSir Edmund Francis Herring将軍を記念して名前をへリング島に変更されました。

1870年〜1880年にかけては、へリング島からBurnley ボートハーバーがあるあたりにかけては、石切り場がありました。リッチモンドやサウスヤラなどの道路の開発に使われました。

ヤラ川は、曲がりくねった川なので、メルボルン史上、かなりの頻度で大規模な氾濫を繰り返しています。その度に、へリング島は、土砂捨て場として使われ、1980年代まで荒れ果てた時代が続きました。

 チャーチ橋(Church Street)。サウスヤラ地区とリッチモンド地区をつなぐ重要な橋です。

Sir Edmund Francis Herring将軍は、第二次大戦でヨーロッパ戦線やアジア戦線で活躍した将軍です。特にニューギニアのココダで1942年から1943年にかけての作戦が有名です。当時、英米豪州連合軍の拠点はニューギニア島のポートモレスビー(Port Moresby)にありました。対する日本軍(南方方面軍)の拠点は、ニューブリテン島のラバウルにあり、その出先拠点がニューギニアのラエとブナにありました。当時のラバウル航空隊(海軍)は、日本軍の中でも先鋭として知られ、連合軍からも恐れられていました。戦闘初期のラバウルでの消耗率が、日本軍対連合軍では1:15の比率でした。日本軍は、ブナを拠点にポートモレスビーを攻略にかかります。

 ポートモレスビーとブナとの中間点がココダの作戦ポイントです。
1942年の半ば、メルボルンに本拠を置いていた連合軍南西太平洋方面軍司令長官ダグラスマッカーサー将軍は反撃を決意します。当面の最大の拠点ラバウルの攻略をThomas Blamey将軍に命じます。
そして具体的な作戦として出てきたのがココダの作戦です。ココダは、熱帯のニューギニアにありながら、最高2000m以上の高度であり、暑さ、寒さ、マラリアなどの熱帯病とも対処しながら日本軍と戦う非常に厳しい作戦でした。
尚、Thomas Blamey将軍は、日本が無条件降伏した際に、1945年9月2日に東京湾米戦艦ミズーリ号での調印式に立ち会っています。

キングスドメインの銅像参照

Google Map

 ジョギングする人が絶えることがないヤラ川の河畔です。
右側の道路は、アレキサンダー通りです。
その右側は、サウスヤラの高級住宅街が広がります。

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