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フィッツロイガーデントップ

チャールズフィッツロイ Sir Charles Fitzroy

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2008年8月26日(火)
チャールズフィッツロイ Sir Charles Fitzroy
フィッツロイ公園
フィッツロイガーデン Fitzroy Garden
イーストメルボルン East Melbourne
メルボルン Melbourne
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今日は、晴れたり曇ったり一時雨だったりと忙しい天気でした。気温は14度と少しづつ上がってきました。週中に天気が良くて週末に天候が崩れるパターンから抜けきれません。

昨年の今日2007年8月26日(ハイストリート High Street

 フィッツロイガーデンの名前は、サバーブのフィッツロイと共に、NSW(New South Wales)植民地第十代総督チャールズフィッツロイSir Charles Fitzroyに由来します。フィッツロイ家は、英国の貴族である侯爵(Duke)の家柄で、代々のフィッツロイ家は、英国の首相や主要な政治家を排出した名門です。
チャールズフィッツロイは、1796年に生まれ16歳で陸軍に入隊し、19歳の時にナポレオンボナパルトの軍隊とワーテルロー(Waterloo)で戦って負傷しています。29歳で陸軍中佐に昇進し、南アケープタウン植民地の副司令官に昇進しました。1845年、49歳の時にオーストラリアNSW州第十代総督に昇進してシドニーに赴任しています。

 フィッツロイのNSW州総督の任期中の最大の出来ことは、ポートフィリップ地区の独立を認めたことです。ポートフィリプ地区とは現在のビクトリア州(当時はビクトリア植民地)のことです。
実際の決定は、英国植民地大臣であったアールグレイ(紅茶で有名。メルボルンの前の英国首相)によってフィッツロイへ文書で提案が出されています。
英国からの囚人移民のNSW州への受け入れを停止したこと。
オーストラリア最初の大学であるシドニー大学を設立したこと。(1850年)
英国造幣局(Royal Mint)を設立してNSWの独立した財政基盤を作ったこと。
など多くの改革を実施しました。

 フィッツロイは、多くの改革を実施した有能な総督でしたが、奥さんのマリーをシドニーでの交通事故で亡くし、傷心のまま辞任して1855年1月にイギリスへ帰任しています。更に同年9月、フィッツロイの長男は、ウクライナのクリミア戦争で長男が戦死しています。フィッツロイ本人は、1858年2月に61歳で亡くなっています。

豪州伝記集

フィッツロイガーデントップ

 チャールズの異母兄弟は、ロバートチャールズといって、進化論を書いたチャールズダーウィンを乗せた世界一周探検の旅のビーグル号の船長で、後のニュージーランド総督となった人物です。


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