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2026年8月7日(木) responsive版
ビクトリアろう唖カレッジの歴史
History of Victorian College for the Deaf
セントキルダ道路 St Kilda Road
583-597 ST KILDA ROAD
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map
1850年代、セント・キルダ・ロードは野原を抜ける未舗装(unmade road)の道だったが、沿道にはすでにいくつかの施設が設けられていた。移民救済協会(Immigrants
Aid Society)の収容施設、兵舎(Military Barracks)、そして教区学校(Diocesan School、後のMelbourne
Grammar School)など。 18世紀後半まで、ろう者を教育することは不可能であると考えられていた。、ろうあ者は言語の習得や使用において克服しがたい困難(
insurmountable problems)に直面していた。
撮影データ iPhone 14
絞りF2.4 1/1783秒 ISO感度 32
2026年1月18日17:24 板屋雅博 撮影
19世紀に入ると、ろうの子供たちを教育することは可能であり、手話(hand signs)などの身振りによる方法、あるいは発話や読唇(lip reading)を教える口話法(oral
systems)を用いてコミュニケーションをとるよう指導できることが認識されるようになった。
1850年代のゴールドラッシュにより、メルボルンは豪州最大かつ最も裕福な都市となり、世界で最も急速に成長する都市の一つとなった。ろうあ教育は尊敬すべき行為(respectable)と見なされ、中産階級の関心(middle
class concern)を集めた。
1850年代から60年代にかけて、自力で生活できない入植者を支援するために、病院、職業訓練学校(industrial schools)、保護施設(asylum)ど、数多くの施設が設立された。1860年まで豪州ではろうあの子供たちへの教育はなかった。最初のろうあ学校(School
for the Deaf and Dumb)は、フレデリック・ジョン・ローズに(Frederick John Rose)よって、プラーンにあったローズの自宅で開設された。
ローズは、ロンドンのオールド・ケント・ロード聾唖学校(Old Kent Road Institution for the Deaf and
Dumb)で教育を受けた。ベンディゴ(Bendigo)で建設作業員として働いていました。彼は耳が聞こえず、言葉も話せないろうあ者(deaf mute
man)であった。1861年、ロースのろうあ学校は、世間の注目を集め、宗派別学校評議会(Denominational School Board)から財政的な支援も得た。1862年、ヘンリー・バークリー総督(Governor,
Sir Henry Barkly)や主要なプロテスタント各派の代表者も出席する中、有力市民らが会合を開き、ビクトリアろうあ者協会(Victorian
Deaf and Dumb Institution)を設立するための委員会を結成した。この機関は、聾唖者に生活の場と教育を提供することを目的とした。生徒数が増加し、ローズのろうあ学校は1861年にウィンザーのヘンリー・ストリー(Henry
Street)トへ、1862年には同通りの元ホテルへ、そして1864年にはコマーシャル・ロード()Commercial Roadへと移転した.。
1863年、植民地政府はローズのろうあ学校に250ポンドを交付した。運営委員会は校舎建設のための土地の払い下げを申請した。レクリエーションや庭園のための十分なスペースも確保できる広さを求めた。1864年から67年にかけて、セント・キルダ・ロード、パント・ロード、ハイ・ストリート、コマーシャル・ロードに囲まれた地域の大部分が、5つの大規模な慈善(benevolent)・地域社会関連の機関に払い下げられた。
・ the Victorian Deaf and Dumb Institution,
・the Victorian Asylum
・School for the Blind,
・Wesley College,
・the Alfred Hospital
・the Freemasons' Alms Houses
ろうあ学校の敷地は、6エーカーであり、後ろ側の1エーカーのブロックは、後にプレスビテリアン教会( Presbyterian Church)が購入した。著名な市民で構成される委員会の支援を受け建設資金を募るための会合が開かれた。初代会長はヘンリー・バークレー総督(Governor
Sir Henry Barkly)、その後ウィリアム・ストーウェル卿(Sir William Stawell)が30年にわたり会長を務め、エドワード・ヘンティ(Edward
Henty)が初期の副会長を務めた。1654ポンドの寄付金が集められ、政府からは3000ポンドが下賜されえた。建築家のクラウチとウィルソン(Crouch
and Wilson)は設計図の作成を指示されたが、ローズがすでに設計案を用意しており、建築家たちが最終的な設計図を作成したのは、その設計案に基づいていた。Mr
Irelandが建設請負人を務めた。1866年3月6日には総督サー・C・H・ダーリング(Governor Sir C H Darling)によって定礎式が執り行われ、同年10月13日にはによって開館式が行われた。この建物には、教室と居住用施設の双方が設けられていました。初代監督にはローズ氏が、初代寮母にはその夫人が任命された。
採用されたのは、1800年代の教育機関によく見られた、左右対称で堂々としたゴシック・リバイバル様式の建物の設計であった。現在、館内にはクラウチとウィルソンによる図面や初期の多くの写真も展示されている。当初建設されたのは、2階建ての南棟と、塔を擁する3階建ての中央棟のみであり、家具や備品を含むこの部分の最終的な建設費は7266ポンドであった。1868年、ローズは現在前庭にある大理石の噴水と池を学校に寄贈した。1871年、児童数は75名に達し、委員会は北棟の建設を決定した。
H Lockingtonが受注し、1871年に完成した。ビクトリアろう唖学校は、高い評価を得ており、ろうあ教育の国際的な動向を取り入れようと努めていた。当初はローズがイギリスで学んだ手話法(manual
method)が用いられていましたが、1879年には豪州で最初の口話法(oral methods)が導入した。ろうあ学校では、通常の教育訓練(読み書き、算数など)、宗教教育、スポーツや体育、学校卒業後の生活に備えるための職業訓練を実施した。
男子は靴作り(boot-making)、木工(woodwork)、園芸(gardening)といった職業技術(trades)を学び、女子は洋裁(dressmaking)や料理(後には事務スキルも)を学んだ。1875年には、68名の学生が学校を卒業し、ごく一部の例外を除き、彼らは自活(self-supporting)していると報告された。ビクトリアろう唖学校の先生たちは、南豪州、西豪州、クインズラン、タスマニアのろうあ学校の校長になった。ローズに続き、校長は1882年に、S
Johnson、1885年にW D Cook、1926年に J H Burchett、1949年にA R Cookが引き継いだ。1880年代に深刻な連続して病気が発生したため、前庭の北西側に病院が建設された。その後、小学校(State
School)の宿泊施設となり、現在Garden Schoolと呼ばれている。1900年代に入ってからも、男子と女子は厳格に分けられていました。クラウチ&ウィルソン(Crouch
& Wilson)の図面やMMBWの平面図には、男女それぞれの運動場が記されており、女子用は敷地の北側に、男子用はハイ・ストリート沿いの南側に配置されていた。
1890年の教育法(Education Act)により、政府は公立の特別支援学校(special schools)を設置する権限を得た。さらに1912年の法改正によって、知的障害者(feeble-minded)、ろう唖者、および盲人のための学校を設置する権限も付与された。1913年には、ろう唖学校が公立小学校第3774号となりました。同校の運営委員会は、引き続き寄宿施設の管理や施設の運営業務を担った。。1918年には、公共建設局(PWD)の建築家エドウィン・エヴァン・スミス(Edwin
Evan Smith)が設計した新しい校舎が前庭に建設されました。この校舎は、中庭を囲むようにU字型に配置された3つの棟から成る、平屋建ての化粧漆喰仕上げの建物でした。
1942年から44年までに同施設はオーストラリア空軍(RAAF)に接収され、ろうあ学校はメアリーズビル(Marysvill)へ2年間移転した。1944年の初めには戻ってきましたが、空軍が撤収したのはその年の後半になってからのことでした。ハイ・ストリート沿いにある本館の南東の角に、木工室と金工室(woodwork
and metalwork rooms)を組み込んだ煉瓦造の職業訓練棟( brick trade block)が1940年頃に建設された。1940年から41年にかけての風疹の流行により収容施設への需要が高まり、戦後にはいくつかの増築や新棟の建設が行われた。1948年以降、E
A Wattsによってブルーストーン造建物の南東角に増築が行われた。寄宿室や浴室を備えた2棟の新しい煉瓦造の翼棟、小規模な映画上映室(チャペル棟と平行に配置されたフェントン・メモリアル・ホール、1950年頃)、および工作室(1949年頃)が含まれ、総工費は25000ポンドに上った。なお、この建設はGladys
Fentonの遺産からの資金援助を受けて実施された。
1952年頃、本館の北東角にArthur Purnellの設計による煉瓦造の建屋が増築され、平屋建てのブルーストーン(青色砂岩)造のサービス棟の一部の上には、煉瓦造の2階部分が増築された。聴覚障害者に対する認識の変化を反映し、1949年に名称がVictorian
Deaf and Dumb InstitutionからVictorian School for Deaf Childrenへと変更された。1948年までは、ビクトリア州において聴覚障害のある子供たちのケアを担う唯一の学校であった。1951年には在籍者数が過去最多の236名(半数は通学生)に達したが、その後、他のろう学校が開設されたことや、難聴の治療技術(特にバイオニック・イヤーbionic
earの開発)が進歩したことに伴い、生徒数は徐々に減少した。2007年時点での在籍者数は約60名。現在の名称はDeaf Children Australiaとなっている。
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