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クイーンビクトリアガーデンズ公園 Queen Victoria Gardens コーヒーパレス 禁酒ホテル  


2021年11月21日(日) 従来版
クイーンビクトリアガーデンズ公園
Queen Victoria Gardens
メルボルン Melbourne
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花時計の直径は、9mを超えるスイスのコンサルタント会社Curt Malning社からスイスの時計会社を代表してメルボルン市へ寄贈されたものである。時計の針は、時計の中央部に設置されたコンクリート製の箱に納められ時間同調モーター(synchronous motor)によって駆動されている。

撮影データ Canon EOS 5D MarkⅡ シャッタースピード優先AE 評価測光 1/1250 絞り4.5 ISO感度 100 オート 露出補正 -2/3 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2017年1月18日17:54 板屋雅博撮影



1866年11月4日にメルボルン市長、助役(Councillor)のI.F. Beaurepaireによって公開された。メルボルンは、1888年の開国100年記念万博の際に花時計を展示したが、1930年代にはロイヤルパーク公園の動物園で休眠状態にしてあった。


酒類の誘惑を除く、全てのホテルの魅力を提供して他の酒販ホテルと競合するように企画された非飲酒ホテル、コーヒーハウス運動は、1830年代に禁酒運動家の応援のもとでスコットランドで始まった。メルボルンでも同様の禁酒協会が1837年に作られた。コーヒーパレス(coffee palace)運動の成功は、ジョン・ムンロー(James Munro,)のような男性たちの力による。ジョン・ムンローは、政治家、不動産投機家で禁酒運動のリーダーであった。メルボルンは、新しいホテルがたくさん必要であった。ムンローは、多くのコーヒーパレスの建設を行った。コリンズ通りのビクトリア通り(Victoria in Collins Street、1880)、フェデラル・コーヒーパレス( Federal Coffee Palace 1888)などであった。


ムンローは、会社を設立して1886年にグランドホテルを買収し、名称をグランドコーヒーパレス(Grand Coffee Palace)と改称した。オープニングセレモニーでは演出として酒販免許を償却して気勢を上げた。ムンローは、グランドホテル、ビクトリアホテル、フェデラルホテルの社長となり、その大半の株式を取得し、ジーロンやブロークンヒル(Broken Hill)などのホテルも取得した。コーヒーパレスは、近郊サバーブや郊外にも広がったが、メルボルンが最大であった。メルボルン市内だけで50箇所を超えた。


1888年、フェデラルホテルは、豪州で最大のホテルとしてオープンした。フランスルネッサンス様式でデザインされ、正面ファサードは、柱、グリフィン魔物(griffins)や4頭立てのタツノオトシゴ( sea-horse)に引かれた二輪戦車に乗るビーナス像(Venus in a chariot)などが飾られていた。内部の装飾は、チェス室、ビリヤード室、読書室、喫煙室、書斎、座席室、客室400室、6台の落下防止装置付き水力エレベーター(accident proof lift)、ガス灯(gas lighting)、電気式ベル、製氷製造機などの世界最新鋭の設備を誇っていた。


バーク通りのメルボルンコーヒーパレスでは200室があり、カールトンのクイーンズコーヒーパレス(Queen's Coffee Palace)の屋上があって人々に好まれていた。

1890年代には、多くのコーヒーパレスは財政難に陥っていた。
禁酒運動家の多くは、禁酒ホテル業での成功に伴い、土地投機( land speculation)や投機的住宅融資(building societies)にまきこまれていた。ブーム期が去ると共に、土地投機や住宅金融が破綻した為に、ムンローなどの投機家も破産していった。


ザグランドは、1897年に酒販免許を取得し、グランドホテルに名前を復帰した。1920年にはザフェデラルも酒販免許を取得しフェデラルホテルに復帰したが、1973年に解体された。1880年オープンのビクトリアホテルは1967年に酒販ライセンスを取得している。

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