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スプリング通り

ゴードンリザーブ Gordon Researve

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2018年10月21日(日)
チャールズ・ジョージ・ゴードン
Charles George Gordon (軍人)
ゴードンリザーブ公園
Gordon Researve
スプリング通り Spring Street
メルボルン Melbourne
この場所の地ap 地図

スプリング通りの南端に近い州政府の建物が立ち並ぶ辺りにゴードンリザーブ公園がある。チャールズ・ジョージ・ゴードン将軍と詩人のアダム・リンゼイ・ゴードンのふたりのゴードンの銅像が立つ。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/125 F11 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2018年1月18日14:23 板屋雅博撮影

wikipedia

チャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)は、英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンのハルツームで戦死した。 チャールズ・ゴードンは、英国陸軍砲兵隊H.W.ゴードン将軍の4男として誕生し、その後、王立陸軍士官学校に入り、1852年に少尉に任官した。 1860年に第二次アヘン戦争が始まると、清に赴任し、1862年まで北京に駐留していたが、太平天国からの防衛のためウィリアム・スティーブレイ(en:William Staveley)将軍の部隊が上海に派遣されると、その一員として同行した。当時、上海では外国人の権益を守るため米国人ウォードが常勝軍と名付けた民兵軍を組織しており、英軍はこれと連合し太平天国軍と戦った。ウォードが戦死すると、淮軍の司令官李鴻章は代わりの司令官を英軍から出すよう要請したため、スティーブレイ将軍はゴードンを常勝軍の司令官に推薦した。

英軍少佐だったゴードンは、1863年に常勝軍の司令官となり、以降、1864年に太平天国が壊滅するまで各地を転戦し、乱の鎮圧に功績を挙げた。 乱終結後、清朝から軍の最高官職を受けた。英国は彼を英軍中佐に昇進させ、バス勲章(コンパニオン)を与えた。ゴードンは、この後、本名をもじってチャイニーズ・ゴードンと呼ばれるようになる。 本国に帰って、1873年まで英国軍人として各地の任務についたが、エジプト(ムハンマド・アリー朝)の総督イスマーイール・パシャの招きを受けて、英国の了解の元、スーダン南部赤道州の総督となった。1876年にエジプトのスーダン・ハルツーム総督と争い、一旦辞職するが、イスマーイールの慰留を受け、スーダン全土の総督になる。

アビシニアとの紛争や反乱をよく抑えていたが、1879年にアビシニアで捕虜となり、解放された後、スーダン総督を辞任しロンドンに戻った。 その後、ベルギーからコンゴ植民地、インド総督から秘書官に、英国の中国領事館から誘われ赴任したが、いずれも長続きしなかった。1881年に英軍に戻り、1882年には少将に昇進した。 その間、エジプトは北部のアラブ人反乱に悩まされ、スーダンの反乱に対応しきれなかった。既に実質上エジプトの支配権を握っていた英国は、1883年にエジプトにスーダンを放棄するよう命じたが、エジプト軍の撤退は困難を極めたため、英国総督はゴードンに対し、ハルツームに行き撤退を指揮するよう要請した。 1884年にゴードンはハルツームに到着したが、やがて、マフディー運動の反乱軍に包囲された。英国はスーダンを放棄する方針だったが、

左側はアルカストンハウス(Alcaston House

 世論はゴードンの救出を要求したため、救援軍が派遣された。しかし、1885年1月28日に援軍はハルツームに到着したが、その2日前にゴードンの部隊は全滅していた。英国における彼の人気は高く、この救出の失敗は当時のグラッドストーン内閣が退陣する原因のひとつとなった(グラッドストーンの愛称はGOM(偉大なる老人、Grand Old Man)だったが、反対派はMOG(ゴードンの殺人者、Murderer of Gordon)と呼んだ)。 ロンドンに生まれたゴードンは、士官学校を出るとクリミア戦争に従軍します。彼の名を上げたのは、中国での活躍である。1700年代にイギリス東インド会社は、中国から茶を英国へ、インドの阿片を中国へ、イギリスの工業製品をインドへと運ぶ三角貿易で莫大な利益を上げていた。中国の清国は、国力が弱っており、阿片を取り締まろうとしてついに1840年に英国との間で阿片戦争が勃発した。

 ゴードン将軍は、1860年に中国へ派遣され太平天国の乱を征伐に活躍し、常勝将軍と呼ばれるようになり、英国、豪州で英雄と呼ばれるようになります。この結果、清国は、英国、ドイツ、フランス、日本に分割された。 1869年にエジプトにスエズ運河が開通しました。フランスとエジプトの共同事業でしたが、英国は株を買収し、更に1882年に英国軍が駐留を開始しスエズ運河を支配を開始した。もちろん英国の狙いは、地中海からインド、アジア、豪州などへの海運と軍事支配だった。英国は、エジプトの植民地化と共にスーダンへの侵略を開始した。ゴードン将軍は、豪州に来たことはない。しかし豪州に銅像が建つほどに英国連邦の中では英雄とされていた。

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