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エチュ-カ Echuca

エチューカ港 Port of Echuca

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2010年9月9日(木)
エチューカ港 Port of Echuca
エチュ-カ Echuca
ビクトリア Victoria
この場所の地図 Google Map

エチューカの観光地は、河岸の港地区。1850年代に戻ったような西部劇の町が売り物。


撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先AE 評価測光 絞りF7.1 1/1600秒 ISO感度 400 露出補正 AWB JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM


 ホプウッドが開設したブリッジホテル。メルボルン以外でのベストホテルとされた。

エチューカの設立者であるヘンリー・ホプウッド(Henry Hopwood)は、1813年に英国ランカシャー州のボルトン(Bolton)に生まれた。結婚後、リバプールに住んでいたが、1834年、21歳の時に、盗品故買の罪で、14年間の島流しの刑に処せられ、遠くタスマニアへ囚人として送られた。
1835年にタスマニアのホバートに到着。模範囚だったホプウッドは、警官に任じられている。しかし結婚せずに女性と一緒に住んではならないという当時の法律に触れて、1年間の懲役を科せられた。1939年には、勤務先のお嬢さんを誘惑した罪で、ポートアーサー刑務所に2年間、服役。1842年には、警察官に復帰。

 港アンティック写真館

1848年にNSW植民地ポートフィリップ地区(現ビクトリア州)にやってきたホプウッドは、マレー川の近くにあった獣脂処理工場で働いていたが、New Road Innというホテルと渡し船を開業。1853年に当時のラトローブ総督に町を開設する計画を送っている。
1854年にエチューカと命名され、土地が売りだされるとホプウッドは、積極的に土地を購入。新しい渡し船を150ポンドで新設し、ホプウッドフェリーとして開業した。羊、牛、諸物資などの物流は、多く、渡し船は独占であったので、ホプウッドは、かなりの利益を得ている。その資金で肉屋、パン屋、獣脂処理工業、小売店などを次々に開設。
ホプウッドは、渡し船に代わって浮き橋を建設したが、特別法によりホプウッドの権益は保証。1859年までにレンガ屋、学校、ワイナリー、新聞、ブリッジホテルなどへ事業を拡大した。

 1851年にビクトリア植民地がNSWから分離独立。同年、ゴールドラッシュが始まり、ビクトリア植民地は飛躍的な発展を始めた。マレー川を使ってサウスオーストラリア植民地からスワンヒルに至る水運の要となったのが、メルボルンへの最短の場所であるエチューカ。1853年に最初の蒸気外輪船マリー・アン号(Mary Ann)がウィリアム・ランデル船長により就航。フランシス・カデル船長の蒸気外輪船レディー・オガスタ号と激しく一番、争いを展開して、地元の話題をさらった。急増する羊毛、レッドガム材木などの産物を輸送した。1700年代後半に英国で起こった石炭蒸気をエネルギー源とする産業革命により、家内工業であった織物業が、工場によって大量生産されるようになり羊毛などの原材料の重要が急増したのが背景にある。メルボルンから英国向けの羊毛と綿花の輸出は激増している。
 
 石炭蒸気を利用する産業革命の主役のひとつ蒸気機関車は、1854年にオーストラリア最初の鉄道、ポートメルボルン‐フリンダース駅が開通。10年後の1864年にはエチューカまで鉄道が敷かれた。エチューカの黄金時代は、その頃であった。1865年には400mほどの桟橋が建設。エチューカの町とのレベル差10mを昇降させる為に大型クレーンも建設。
レッドガム材木、牛、羊の皮をなめす工場、小麦などもエチューカの産業を支えた。



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