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2021年8月17日(火)(responsive版)
ソレント Sorrento
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

ソレントは、メルボルン湾の一番南側で湾の出口近くに位置する観光地である。ソレントが面する湾をサリバン湾となった。イースタン・シスター(Eastern Sister)の露頭であった。
湾の対岸にあるへのフェリーの発着所である。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF5.6 1/800秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2010年3月13日13:16 板屋雅博 撮影

画像は、フランクストンの海岸

 1803年、デビッド・コリンズ大佐は、NSW植民地フィリップ総督の命によりポートフィリップ(ビクトリア)の臨時総督(Lieutenant-Governor at Port Phillip)に任命された。
ソレントに定住を図った。豪州での定住としては、シドニーに次ぐ2番目の記録であった。メンバーは、軍人と囚人のみの囚人植民地であった。数か月の定住の後、約500名の住民は、タスマニアのホバートへ移動した。有名な囚人ウィリアム・バックレイ(William Buckley)は、この時にソレントの居留地から逃亡した。バックレイは、対岸のジローン地区に移動して、30年以上をアボリジニの人々と生活した。コリンズ大佐のソレント居留地には、裁判所(magistrates' cour)、公共病院(public hospita)、郵便局( postal service)、政府印刷局が建設され、結婚式や葬儀も行われた。どれもビクトリアで最初のものであった。
コリンズ大佐は、1803年4月にイングランドから帆船カルカッタ号(HMS Calcutta)で出航し、10月にポートフィリップに到着して囚人植民地( penal colony)を設営した。

  サリバンベイのソレントの近くでは第一大佐(James Hingston Tuckey)を探検に派遣した。タッキーの報告とコリンズ大佐自身のソレント植民地への反感により、キング総督に書簡を出し、植民地の撤退を進言した。 キング総督が了承したので、コリンズ大佐は、ソレントを撤退して、ヴァンディーメンズランド(タスマニア)へ移動して新しい植民地ホバートの建設を進めた。




  1700年代の英国は、産業革命が進んだ時代である。繊維関係の機械、蒸気機関、各種産業機械が次々に発明されて大英帝国に大きな富をもたらした。その一方でロンドンなど大都市に、農村部から大量の労働者が流れ込み、大量の低賃金労働者や失業者が町にあふれるという非常に不安定な社会であった。急激な都市の膨張にインフラが整わずに、劣悪な環境の中で、衛生面も悪化し、工場では1日15時間以上も低賃金で働かされるという状態であった。このため、多くの犯罪が発生して、ロンドンの刑務所はどこも囚人で満杯となり、テームズ川に船を浮かべて、囚人を収容する事態となった。
この状態を解決するための手段として選ばれたのがアメリカ植民地などへの囚人の棄民である。
ところがアメリカ植民地が1776年に独立して最大の流刑先を失ってしまった。
ジェームズクック船長が1770年にオーストラリアのシドニー周辺や西海岸を調査して植民に向いているということが判っていた大英帝国は、米国に代わる流刑先としてオーストラリアを選んだというわけである。

 1803年4月には、『オーシャン(Ocean)』号と『カルカッタ(Calcutta)』号の2隻の最初の植民船が英国を出発してオーストラリアへ向かっている。この船には、467名の船員乗員の中で、299名の囚人(男性223名、女性43名、子供33名)と乗船しており、子供の中でも12歳以下が6名含まれている。囚人は、ほとんどが軽微な犯罪がほとんどで、子供などは玩具を盗んだという程度で流刑になっている。船員、軍人は、168名で、船長は、メルボルンの繁華街にあるコリンズ通りに名前を残しているデビッドコリンズ大佐(David Collins)である。



 デビッドコリンズ大佐ら移民団は、1803年10月10日にメルボルン湾(Port Phillip Bay)のソレントに上陸している。正確には、ソレントから少しメルボルンへ戻った場所にあるサリバンベイ(Sullivan Bay)である。囚人の中には、後にメルボルンの創設者のひとりとなるジョンパスコフォークナー(John Paskoe Fawkner)が含まれている。囚人移民団から逃亡者も出ており、中には、メルボルンの西部地区で33年もアボリジニの中で暮らしたウィリアムバックレイ(Buckley)もいる。サリバンベイでの植民地では、結婚式、葬式、誕生、学校、石切り場、郵便、病院、裁判所、水道の供給、印刷などが行われており、すべては、ビクトリアでは初めてのことである。ところがソレント地区は、半島の先端部分に位置しており、飲料水や材木の確保が難しく、結局、1804年5月20日にソレントからの撤退することになった。コリンズ隊長以下植民団は、1803年に発見されていたタスマニアのホバートへふたつのグループに分かれて移動している。




 7か月に渡ったビクトリアへの植民は、こうして失敗に終わり、その後32年間は、ビクトリアの地は、開発されないまま放置されることになった。
ソレントには、コリンズ大佐の移民団の遺跡はほとんど残っていないが、4つの墓石、金属部品などが発見されている。



 1788年1月26日(オーストラリアデー)に、アーサー・フィリップを総司令官(初代NSW総督)とする11隻の英海軍の初めての囚人移民船団(ファーストフリート)がシドニー湾に到着した。デビッド・コリンズ大佐は、そのメンバーのNo3の法務官であった。
軍人212名、囚人男女約750名であった。


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