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クイーンズクリフ要塞 Fort Queenscliff

2021年9月12日(日)(従来版)
クイーンズクリフ要塞 
Fort Queenscliff
クイーンズクリフ
Queenscliff
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map) 


クイーンズクリフとフィリップ湾の防衛は、敵対する外国勢力の侵略からメルボルンとビクトリアを19世紀後半に後半に開発された。

撮影データ Canon EOS 5DMarkⅡ シャッター速度AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2010年12月28日16:21 板屋雅博 撮影

 敵対する勢力とは時期によって異なる。1800年代初頭は、ナポレオンからナポレオン三世時代のフランス(1800-1870年)、クリミア戦争時代のロシア、南北戦争時代(1861年から1865年)のアメリカなどであった。英国の植民地であるが本国から遠く離れており、電信も電話もない時代であり、単独で難しい決断を迫られることもあった。クリミア戦争( Crimean War :1853-56))により国防の意識が高まった。1859年に英国陸軍のピーター・スクラッチニー将軍(Peter Scratchley)がメルボルンを訪問して植民地の海防にアドバイスを行った。ポートフィリップ湾の出入り口に巨大な大砲の砲台(batteries)建設を建言し、ショートランド(Shortland)のブラフ地区(Bluff)が建設用地とした。


スクラッチニー将軍は、メルボルンの更なる防衛の為に、ホブソン湾の内部の数か所に大砲砲台の建設を建言した。1975年から76年にかけて普通軍(徴兵制ではない)の創設に関して植民地最高機関であるロイヤル委員会が開催された後、ビクトリア政府はロンドンの防衛施設長官(Director of Works and Fortifications)であるサーウィリアム・ジャーボイス(William Jervois)中佐を招聘した。ジャーボイス中佐は、スクラッチニー将軍と共にメルボルンを訪問した。ビクトリアの基本的な防衛は、フィリップ湾の出入り口に集中することを建言した。湾の入り口と水路の浅瀬に要塞(ortifications)を建築することを提言した。


 1879年から86年にかけて、建言は実行に移され、湾の防衛は、段階的に進行した。クイーンズランド要塞は、囲われた要塞として建設され、大口径の大砲(heavy-calibre cannons)がショートランドのブラフ地区に建設された。クイーンズクリフの町の北側にあるスワン島は、西側のモーニントン半島への水路に位置するが、同様に要塞化された。湾の浅瀬にある法王の目(Pope's Eye)と南水路(South Channel)に設置されたふたつのスワン島の要塞は、西側地区、シモンズ(Symonds)地区、南水路を防衛した。南水路要塞(South Channel Fort)は、建設されたが、法王の目の浅瀬の要塞化は見送られた。それは各要塞の強化によって、効率的に敵船の水路を閉鎖できるからであった。

魚雷と機雷がスワン島に保管され、戦時には航路に設置される予定であった。スワン島は、恒久的にビクトリア軍工兵隊によって駐留が決定された。ロンズデール岬の信号所(signal station)の隣接地に固定式大砲砲台が計画されたが進展しなかった。第一次大戦と第二次大戦時のポートフィリップ湾の西側の防衛は、スワン島に駐在する移動式砲兵隊によってカバーされつことになった。

 
ポートフィリップ湾の東側の防衛は、ネピアン要塞(Fort Nepean)、シェボー要塞(Cheviot)、ピアース要塞(Fort Pearce)がクイーンズクリフ要塞に比べると小規模ではあったが建築された。クイーンズクリフ要塞は、デザイン的にも実質的にも防衛司令部が置かれたが、戦略的な立地が理由である。メルボルンと電信線が引かれた。


 
クイーンズクリフ要塞の大砲郡を中心とした内陸防衛システムは、1882年に運営開始された。
1886年には、ポートフィリップ湾は南半球で最も防衛網が強化された場所となった。
その後、50年間はメルボルン湾の各要塞にはビクトリア軍が駐留し、ネピアン要塞とクイーンズクリフ要塞は、第二次大戦時には完全な臨戦態勢で稼働された。

1852年チャールズ・ラトローブビクトリア総督はショートランドのブラフ地区(Bluff)で土地監督官に町を設計するように命じた。土地監督官は、同年5月1日にブラフに郵便局長を指名して、ジーロンとウェスタン地区の郵便物を取り扱わせた。最初の移民により同年6月23日にクイーンズクリフが宣言され、2か月後に町の区画が販売開始された。1838年から1843年には放牧の最初の免許が与えられ、灯台が建設された。1853年から54年に水先案内人用の小屋と検疫所(Quarantine Station)の検疫官(Health Officer )の家屋がジェリブランド通りに建設された。税関職員が派遣された。教会、小学校、最初のホテル、二番目の灯台が建設された。

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