自由に走れる馬車や乗合馬車は、急速に広まった。起業家のフランシス・ボードマン・クラップが1869年にメルボルン・オムニバス会社を設立した。トラム路線を開発して、自社の乗合馬車を近郊サバブに導入する計画であった。1883年にやっと各近郊自治体の許可を得て、議会によってメルボルントラム軌道会社(Melbourne
Tramway and Omnibus Company)にトラム会社30年間のフランチャイズ運営権を与え、市営トラム軌道信託会社(Tramways
Trust)によって所有された。シドニーは拙速な決定をして蒸気動力式トラムを導入して失敗したが、決定が遅延したメルボルンでは1873年にサンフランシスコで初めて導入された、地下を駆動するケーブルを使用するシステムを利用して成功した。
1888年、サザン・エレクトリック会社(Southern Electric Co. Ltd)は、建国百年記念万博(Centennial International
Exhibition)にて電気式トラムの試験走行を行った。その設備はメルボルンのボックスヒルとドンカスターの間で、1889年から96年まで最初の電気式路面電車に使用された。電気式トラムはプラーン&マルバーントラム公社など関係各市とベンチャー投資資金の協調によって資金を供給された。
同社のリース切れた際に、ケーブルトラムの経営をメルボルン首都市当局が引き継いだ際に更なる資金供給が必要になった。
メルボルン・ケーブルトラム軌道会社とロイヤルパーク馬車トラム軌道会社がトラムを運営したが、1919年に新しく設立されたメトロポリタントラム軌道局(MMTE:Melbourne
Cable Tramways and the Royal Park Horse Tramway)が引き継いだ。1920年には下記が加わった。
プラーンとマルバーントラム軌道会社(Prahran and Malvern Tramways)、メルボルン、ブランズウィック、コバーグトラム軌道会社(Melbourne,
Brunswick and Coburg Tramways)、フィッツロイ、ノースコット、プレストン軌道会社(Fitzroy, Northcote
and Preston Tramways)、フッツクレイトラム軌道会社(Footscray Tramways )、ノースケット当局ケーブルトラム軌道会社(Cable
Tramway of Northcote Council)
電気式トラム路線は拡張され、役員会は、斬新的にケーブルシステムを転換した。メルボルン最後のケーブルトラムは1940年10月にバークストリートからスタートした。戦後の時代に、トラムの重要な擁護者は、1949年かあ70年までMMTBの会長であったサーロバート・リッソン(Sir
Robert J.H. Risson)であった。リッソンは、トラム軌道を廃止してバスにするという批判に断固として反対した。1983年にMMTBの役員会機能は、首都圏鉄道輸送局(
Metropolitan Transit Authority)に引き継がれた。電気トラム軌道の総距離数は1956年に最大に達した。これは1990年代の開発再開まで続いた。
トラムは移民や学生の雇用の受け皿となった。港湾地区同様に好戦的な組合があった。自動改札機は1989年にストライキがを引き起こした。トラムカーレストランは、1982年に設立された。1994年にシティーサークル路線が完成して、無料で人気がある旅行者サービスとなった。1990年にナショナルトラストは、1923年から56年に生産された305輌から成る稼働中のWクラストラムを州遺産に指定した。公共輸送公社(Public
Transport Corporation)は、7輌のWクラス各種デザインを含む25輌の歴史遺産車輌フリートを指定して整備して、一般使用から外した。歴史遺産車輌は、ホーソントラム基地(現トラム博物館)で人気アトラクションとなった。
1978年に芸術省(Ministry for the Arts program)は、 Clifton PughやMirka Mora.など16名の芸術家によって塗装されたトラムを展示した。歴史家のJanet
McCalman は、作品(Journeyings 1993)は69番トラムはメルボルンの中産階級の象徴と称した。