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西リッチモンド鉄道駅 West Richmond Railway Station

2021年11月14日(日)  従来版
西リッチモンド鉄道駅 
West Richmond Railway Station
リッチモンド Richmond
メルボルン Melbourne
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西リッチモンド鉄道駅は、プリンセス橋駅とコリンウッド駅の間にあり、メリンダ鉄道線とハーストブリッジ線の駅で、メルボルンの内側サバーブであるリッチモンドに位置する。1901年10月21日にオープンした。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 5.0 1/640秒 ISO感度100 露出補正-1/3 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2015年1月21日 10:0


質店 Pawnbrokers
1849年にメルボルン地方裁判所(Magistrates Court)は、バーク通りに店を開くアン・ウィリアムス(Anne Wills)にメルボルン最初の質屋(Pawnbroker)の公式免許を交付した。1859年までには39の質店が市内や近郊サバーブで開業した。はっきりと質屋を目立たせる為に、3つの金色のボールの看板を質店の外側に架けた。1800年代後半に質店は、メルボルンの繁華街であるエリザベス通りやスワンストン通りに集中した。幾つかの質店は、富裕層の顧客を相手にした。金、貴金属取り扱い商のCohen & Marksなどが顧客であった。個人顧客対応を売り物とした。1864年にコリンウッドの質店主ヘンリー・ニュートン・グッドリッチ(Henry Newton Goodrich)が書いた小説Raven Rockstrowは、当時の質店の様子を描いている。

ある評論家は、犯罪を助長し、豪州植民地における英国の貧困層の再現であるとして質店を非難した。
しかし大半の人々は質店を貧しい人々の銀行であると理解していた。銀行などが貸し出しを出来なかった人々に資金を与えたからである。質店は、俗語ではポップショップと呼ばれ、低所得者層に資金を供給し、生き延びる手段として重要な機関をして特に経済危機の時期にも存続した。

Liquor Licensing
酒類免許は、メルボルンに蔓延った飲酒を統制し、規制する為に設定された。1800年代中旬から1900年代前半は、有力な禁酒運動勢力が酒類免許論争に加わった。1840年代、総合禁欲連盟(Melbourne Total Abstinence Society)、マシュー神父協会(Father Mathew Association)などのメルボルンの禁酒組織は、単純に社会模範として人々を酒から遠ざけようとした。1851年に米国メイン州で成立した禁酒法に触発されて、禁酒活動家は、ビクトリアでも同様の法律の成立を図った。禁酒運動家は、酒の販売を制限について、政治家や一般民衆を説得することは出来なかったが、酒類販売免許の制限する宣伝には成功した。


平日の夕方早い時間に酒類販売を終了することや、日曜日には販売しないこと、酒類販売禁止地区の設定(local option or local prohibition)などであった。納税者は、酒類免許を地域的に制限することが出来た。地域制限は、1900年代まで継続された。例えばボックスヒルでは酒類制限(dry restrictions)が20世紀初頭まで継続し、1999年に投票が行われ、レストランでは免許が許可されたが、パブ(hotels)での提供は許可されなかった。パブでの酒類提供は、午後6時までとされたが、1916年に導入された。第一次大戦中は、愛国法が可決されたが、禁酒法は1966年まで変更されなかった。

酒販免許は、社会の全てに公平に行われたのではなかった。1869年のビクトリア・アボリジニj保護法(Victorian Aborigines Protection Act)ではアボリジニの人々が酒の購入と飲酒を禁止した。この法律は、人種的にアボリジニは、白人に劣っているという間違った考えや人種差別に基づいたものであり、 先天的にアルコール類に溺れる傾向があるとしていた。白人には許容された差別的な措置は、1957年にやっと廃止された。


バリーレーン(Barry Lane)は、リトルバーク通りとロンズデール通りの間をクイーン通りに平行して通っている。別名は、タンカードプレイス(Tankards Place)としても知られる。1895年にエドワードとウェテンホール(Edwards and Wetenhall)木製サドル制作会社や、シャムロックホテル(Shamrock Hotel)、禁酒ホテルなどがバリーレーンにはあった。


 シャムロックホテル酒場は、1862年に建設され、1870年になくなるまでマイケルオブライエン(Michael O'Brien )によって経営された。その後は、妻のエレンが酒販ライセンスを取得して28年間、経営した。テンペレンス(Temperance)禁酒ホテルが設立され、シャムロックホテルのような酒場ホテルと直接競合した。メルボルンの人々に酒の悪から離れて社交の場を提供した。禁酒ホテルは、結局人気を呼ばずに財政的に破綻し、多くは結局酒販免許を取得した。2008年頃、バリーレーンは、法律事務所、事務所、クイーン通りのカフェ、駐車場などの裏道となっている。

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