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Post Office

カスバート・コリングウッド 英語

トラファルガー海戦 英語

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2021年9月25日(土)(responsive版)
コリンウッド郵便局 
Collingwood Post office
174-180 Smith Street, COLLINGWOOD
コリンウッド Collingwood
メルボルン Melbourne
この場所の地図(Googole Map) 

コリンウッドとフィッツロイは、メルボルン最初のサバーブとしてニュータウン(Newtown)の名前で知られ25エーカー(10 ha)四方(blocks)が1838年に発売された。1840年代初頭までヤラ川沿いのいくつかのブロックだけに人々が住んでいた。1842年にロバート・ホドルがラトローブ総督の指示により、コリンウッドと命名した。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF10.0 1/160秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2010年12月28日16:21 板屋雅博 撮影

 当地にあったコリンウッドホテル(Collingwood Hotel)に由来していると思われるが、。1805年のトラファルガーの海戦でネルソン提督をサポートしたカスバート・コリンウッド将軍から来ている。イーストコリンウッドは、西側にスミス通りからのスロープ沿いにあり、北側にはハイデルベルク通りがある。スロープを下がると湿地帯があり、低地が東側のヤラ川河畔まで続いていた。現在のビクトリア通りが南にある。高台の地区は1840年に土地の分割があったが、実質的にコリンウッドの定住ラッシュが始まったのは1850年代である。1855年にイーストコリンウッドは、行政組織に昇格したが、メルボルン、ジーロンに続き3番目であった。

 1861年に12653名の人口を記録したが、そこ頃から不名誉となるほど治安が悪化した。1880年台にはコリンウッドは、メルボルンで最も死亡率(death rate)が高かった。1873年に町に昇格した際にイーストが取れてコリンウッドとなり、1876年に市に昇格した。コリンウッドでは靴、ビール、石切り、煉瓦などに多くの非熟練工、半熟練工に多くの職業を提供した。労働者は地元の安宿に宿泊した。労働者たちは、1879年にビクトリア靴製造労働者組合(Victorian Boot Operatives Union)を結成した。ビクトリアの最初の労働者階級から議員となったCharles Jardine Donは、1859年にコリンウッドで当選した。1860年代から地元の住民はコリンウッド・フットボールクラブを団結して応援した。20世紀のチームの最も有名な後援者は、ジョン・ウレン(John Wren)であった。


 伝説的な( larger-than-life)地元の顔役でで、1893年から1907年までジョンストン通りの紅茶店の裏手で非合法な賭け博打場であるコリンウッドトート(Collingwood Tote)を経営したことで知られる。
コリンウッドの社会救済施設(city mission)が貧しい人々を助ける為に1854年に設立された。1869年にジョン・シングルトン医師(Dr John Singleton)が無料医療救済診療所(Medical Mission Dispensary)を設立し、後に女性の宿泊施設(Night Shelter )を売春婦の厚生施設(Home for Fallen Women)を作った。医療救済診療所の運営はその後も継続され、1977年にコリンウッドコミュニティ健康センター(Collingwood Community Health Centre)となった。豪州で最初の保育所(creche)が1880年代に働く母親をサポートする為に作られた。


 1886年にメルボルンの一等の近郊都市であるという行政当局の主張によりホドル通りにコリンウッドタウンホールが建設された。1890年代の不況の後で、コリンウッドの最も老朽化した(dilapidated)いくつかの建物が取り壊されて、総合デパートであるフォイ&ギブソン(Foy & Gibson)が拡張された。20世紀初頭には、スミス通りは、メルボルン市内中心部に次ぐ最も繁栄する商店街として有名になった。GJ.コールズ(G.J. Coles)は、1914年にコールズの1号店となる雑貨店(variety store)をオープンした。ケーブルトラムの3路線がスミス通り、ジョンストン通り、ビクトリア通りに敷かれて、シティとコリンウッドを結んだ。



 1930年代の不況で職が無い労働者がコリンウッドにあふれ、安い宿泊施設を求めた。
靴工場から出るゴミ置き場から集めた皮の切れ端を木材の代わりに家庭用のストーブで燃やした為に、ひどい匂いが町を漂って、コリンウッドのコークス(Collingwood Coke)と呼ばれた。
第二次大戦の後の数十年は、コリンウッドは靴や履物、服、ビールなどの製造業の中心地となったが、多くの住民は工場がメルボルンの他の地域に移転に伴って転居した。1960年代にはコリンウッドの人口は100年間で最低に落ち込んだ。


 1971年には、海外生まれの移民が人口の41%を占めた。アイルランド、ギリシャ、イタリア、インドネシアなどからの移民の後継世代が特徴であった。1960年代にビクトリア住宅公社(Housing Commission of Victoria)は、中高層住宅アパートの数ブロックを建て替えた。1970年代にホドル通りを拡張し、ドンカスター(Doncaster)からノースカールトンまでのF19号のフリーウェイをアレキサンダーパレード(Alexandra Parade)に沿って建設した。このことによりコリンウッドからクリフトンヒル(Clifton Hill)が分離された。


 コリンウッドの歴史的建築物
グレースダーリングホテル(Grace Darling Hotel 1854頃))
ヨークシャービール工場(Yorkshire Brewery (1858-76)
ドールハウス(Doll's House)
フォイ&ギブソン(Foy & Gibson's complex 1887-1925)
シングルトン診療所( Singleton's Medical Welfare Centre 1887-99).
1970年代から中産階級の専門家クラスや学生がシティへの近さなどから住み始めた。古い住居を改修し、ホテルやアパートを改築して近代化が進んだ。

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