シティ案内

今日の一枚

Bay View Hotel ウィリアムズタウンの歴史 その1

メルボルン百景トップ

ウィリアムズタウン

Williamstown(wiki)

Bay View Hotel

シェナンドー号(日豪プレス)

2020年11月7日(土)  responsive版
ベイビューホテル Bay View Hotel
ウィリアムズタウン Williamstown
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

ベイビューホテル Bay View Hotel and shop
175 Nelson Place, Williamstown
設計:Gordon McCrae and constructed by
建築業者:Mr Ingham
建築年:1910年

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 中央部重点平均測光 絞りF6.3 1/500秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日12:14 板屋雅博 撮影



1906年に設置されたLicenses Reduction Boardの影響を受けている。ホテル許認可削減委員会(Licences Reduction Board)は、1906年の許認可法(Licensing Act)に基づき1907年に10年の期限で設置された。ビクトリアでホテルの許認可を削減する目的であった。認可の撤廃した際の補償資金を設立した。改善された建築基準が設定され、新築ホテルに適用された。通常は大手ビール会社がホテルを所有する上質なホテルに適用されたが、この場合は、個人所有ホテルに適用された。
ウィリアムズタウンの写真家であるアンドリュー・ライダー(Andrew Rider)との関係も重要である。ベイビューホテルは、エドワード期の商業建築である。

 1856年にはウィリアムズビーチのそばのガーデン通り(Garden Stree)の突き当りにウィリアムズタウン水泳場(baths)が建設された。.水泳場は、リリントン氏(Mr Lillington)によって運営されたが、1859年には、女性専用となった。lightship
最初の灯台船がポイントジェリブランドの沖に設置された。1856年10月にに行政が1050ポンドで購入した三本マスト小型帆船(barque)ニュー・コンスティテューション号(New Constitution)が利用され1859年7月25日に設置された。ジェリブランド岬沖に設置する2基目の灯台船の入札が1860年5月に実施された。新しい灯台船は、同じ2基の白色灯灯台から成っていて、高さが同じで7.3mの間隔を持っていた。水深8m(4.5fathoms)にアンカーを打ったものであった。灯台船は、ジェリブランド岬の岩礁を知らせる為に、1861年から1895年まで使用された。


今後の撮影予定:
 
 ウィリアムズタウン郵便局(ビクトリアで現存する最古の郵便局建物)と技術高校(Mechanics Institute)は、1860年に建設された。
ウィリアムズタウンは、1861年には本船修理と新造用に13基の傾斜した造船台(slips ドック)を持ち、岸壁でのホテルは40船舶の船員を収容できた。1864年には、ウィリアムズタウンの境界線は、ニューポートやスポッツウッヅ(当時のSpottiswoode 現在のSpotswood)にまで迫った。ヤンリーン(Yan Yean)水源からパイプで飲用水が供給されて、更に急速な町の拡大が可能になった。

Yan Yean
 
ウィリアムズタウンレーシングクラブ(Williamstown Racing Club)は、1864年に設立された。1872年にサラブレッド馬レーシングクラブ連盟が設立されたが、古参メンバーのひとつである。ウィリアムズタウン競馬場( Williamstown Racecourse)は、海に向かって巨大で精巧に装飾された正面スタンドは豪州でもっとも素晴らしい競馬場のひとつである。ウィリアムズタウンフットボールクラブは、1864年に設立されたオージールールのフットボールクラブである。

1865年シェナンドー(CSS Shenandoah)号事件
米南北戦争の際に南軍( Confederate States)軍艦のシェナンドー号は、インド洋で北軍(Union)の艦船を数隻、撃沈した後で、1865年1月25日午後、ホブソン湾に入港してきた。ワッデル船長(Captain J. I. Waddell)はウィリアムズタウンのドックで船を修理し、食料と水を補給したいと語っている。ビクトリア植民地政府は中立を標榜しており、北軍船を入港させるかを決定するまで、沖で待たされた。2台のドックが政府所有であったので、民間会社に1台を貸して、シェナンドー号を入渠させて修理を実施した。民間会社に責任を持たせる事にして、豪州の中立を守ることにした。1871年のジュネーブの国際裁判所( International Court in Geneva )で、ウィリアムズタウンでシェナンドー号を修理したことにより、アメリカ政府が被った損害への補償として英国政府が82万ポンドを支払うように裁定が下された。

1857年から1889年までの間、ビクトリア鉄道(Victorian Railways)の基幹車両工場がポイント・ジェリブランドにあり、同地区面積の85%を占めた。輸入蒸気機関車はウィリアムズタウン工場で組み立てられた。1889年以降は、近くのニューポートに移転した。1870年頃には、ウィリアムズタウンはビクトリアの主要港として知られた。桟橋(piers)、引上げ船台( slipways)、造船工(shipwrights,)、港湾労働者 (wharfie)などが、ネルソンプレイスに面した海岸地帯で働いていた。
 
 関税省(Customs Department)と同様に、船長、ビクトリア海軍省、海運局(Harbour Trust)、関係する全ての政府機関(all established bases)がウィリアムズタウンに集まっていた。

1853年にポートフィリップ・ヨットクラブとして設立されたビクトリア・ロイヤルヨットクラブは、1873年にジェム桟橋に近い現在のネルソンプレイスの場所に移転してきた。

ウィリアムズタウン北小学校は、1874年に設立された。同年、マーケット保護地がウィリアムズタウン市議会によってウィリアムズタウン小学校用地として購入された。

このページのトップへ

inserted by FC2 system