2020年11月15日(土) responsive版 ビクトリアイン Victoria Inn
ウィリアムズタウン Williamstown メルボルン Melbourne
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1906年に設置されたLicenses Reduction Boardの影響を大きく受けている。ホテル許認可制限委員会(Licences Reduction Board)は、1906年の許認可法(Licensing Act)に基づき1907年に10年の期限で設置された。
撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 中央部重点平均測光 絞りF5.6 1/125秒 ISO感度 100 露出補正 オート
JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日13:23 板屋雅博 撮影
Victoria Inn
ビクトリアイン
Victoria Inn
住所:65 Douglas Parade WILLIAMSTOWN, Hobsons Bay City
建築年:1916年
設計:Sydney, Smith and Ogg
この制度により新しいホテルの建設が推進され、高い水準が設定された。主要なビール会社がホテルオーナーとなった。ホテル建築家として著名な Sydney
Smith and Oggとロバート・ハッドン(Robert Haddon)をコンサルタント設計者(Robert Haddon)として使用し、ビクトリア・ビール会社(Victoria
Brewery Company Ltd.)の協力で建設された。
アールヌーボー様式(Art Nouveau)で設計された20世紀初頭の傑作ホテル建築で、建築当初のスタイルをそのまま残している。Sydney,
Smith and Ogg事務所とビクトリアインによって広く使用された。交差点角地に立地し円錐形(conical )のタワーが特徴的である。1800年代末から1900年代初頭にかけて、ホテルが地域の集会場として重要な役割を果たした。
アルフレッド・グレイビング・ドッグ(Alfred Graving Dock)は、エジンバラ公アルフレッド王子(HRH Prince Alfred,
KG, Duke of Edinburgh)の臨席の下で1868年1月4日に礎石が置かれた。アルフレッド王子は、英国海軍の初の鉄甲(ironclad)軍艦ウォリアー号(HMS
Warrior)で到着した。アルフレッド乾式ドックは、ビクトリアでは初めて、当時の豪州では3番目の乾式ドック(graving dock)である。ビクトリアの海運業の発展に寄与した。ドックの完成から現在まで連続して使用されている。植民地政府公共建設局のウィリアム・ワーデル(William
Wardell )が主任監督官(Inspector General )の任期の時期にドックを担当した。
1860年11月24日のウィリアムズタウン・クロニクル紙によると、ウィリアムズタウン・バプテスト教会は、1868年に建設されたが、教団(congregation)は、8年前に組織されていた。
洗礼儀式(Baptismal services)は、ウィリアムズタウンの裏手の海岸で1861年から行われた。最初の洗礼は、サウスヤラのデビッド・リー牧師(Rev.
David Rees)により1861年3月10日に行われた。1868年12月からオッドフェローズ共済会館(Oddfellows' Hall)も洗礼に使用された。セシル通りのプレスビテリアン教会学校も後に使用され、1870年4月からは、禁酒運動ホール(Temperance
Hall)が使用された。ダグラス・パレードにあるタバーナクル(Tabernacle)、現在のクライスト教会Church of Christ)が続いた。1884年にバプティスト教会の建物は、1884年に公式にオープンした。
1882年(明治15年)、日本海軍練習艦帆船「筑波」は、訓練と親善の為、香港、シンガポール、バタビア、ウィリアムズタウンを歴訪したが、長期帆走により脚気で3名の水兵がホブソン湾で亡くなった。
当時の新聞に葬儀の模様が詳しく報じられている。1か月の滞在期間中にメルボルン、バララット、ベンディゴを訪問して、歓迎会がもようされ、筑波でも練習艦の一般公開、花火大会、船上舞踏会が行われた。その後、3名の墓は忘れられ、無縁仏として忘れられようとしたが、1991年に偶然に、ウィリアムズタウン在住の野口幸子、アラン・デイビッドソン夫妻により発見され、その後、日本政府、メルボルン領事館、水交会により墓が1994年に再建された。筑波の訪問は、日本海軍による豪州への初の訪問であり、戦前には他艦も含めて23回の親善訪問を行っている。
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