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ロイヤルボタニカルガーデン

別れの木 ビクトリア植民地の独立

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2008年7月29日(火)
別れの木 The Separation Tree
ロイヤルボタニカルガーデン
Royal Botanical Garden
メルボルン Melbourne
この地区の地図Googole Map

昨日に続いて今日も素晴らしい天気に恵まれました。午前中は目も覚めるような真っ青な青空が広がりました。

昨年の今日2007年7月28日(冬のマクラウド

別れの木(中央)は、樹齢162年になり、メルボルンの曙の時代から今日までを見守ってきた木です。

 別れの木(レッドリバーガム River Red Gum)と別れの木の休憩所 (Separation Tree Rest House)

1850年11月15日、ロンドンの大英帝国議会においてビクトリア(当時は、ポートフィリップ)が、NSW州植民地から分離して、新しく植民地として独立するというニュースが船でメルボルンに届きました。
29000名のメルボルン市民の喜びは大きく、4日連続で祭日となり、かがり火が夜通し焚かれました。大半の市民は、全ての仕事を放棄して、当時出来たばかりの初代プリンセス橋を渡ってヤラ川のこの公園(未整備状態)に集まりました。
この別れの木は、公園自体の歴史より古く1846年に植えられたものです。
ロイヤル植物園は、NSW州ポートフィリップ地区のラトローブ初代監督官によって1846年に地域の公園予定地に指定されています。

 1850年代には、モールス通信機はまだ欧米で実験段階でした。従って通信は全て船に頼っていたのです。メルボルンで、政府の許可を取る場合や大きな裁判の場合、全てシドニーに船または馬で数週間から数か月の時間がかかりました。更に大きな許可を取る場合には、いったん、シドニーで決定を受けて、更にロンドンに船で許可を取る必要があり、数年の時間を要していました。シドニーに住む人々にとっては新興の田舎町メルボルンのことなど真剣に考える人は稀で、ほったらかしの状態でした。
ビクトリアが植民地として独立する場合には、大半がメルボルンで決済が出来、また本国ロンドンと直接につながることにメリットは計り知れないものがありました。
メルボルン市民の喜びは大きく、50年後の豪州統一の際よりも遥かに大きなお祭り騒ぎでした。

 左側は、ビクトリア植民地独立100年を祝って1951年11月に植えられた同じくレッドリバーガム River Red Gum。Sir Dallas Brooksによって植樹されました。いつの日か、初代の別れの木を引き継ぐことになります。

ビクトリア植民地分離の法案がロンドンの議会を通過した翌年の1851年7月1日に正式に分離しました。

メルボルン市民にとってラッキーだったのは、独立後わずか数週間後の8月中旬にメルボルン郊外で金塊が発見され、ゴールドラッシュが始まったことです。マーベラスメルボルンの時代が始まります。

ビクトリア植民地の分離には、ラトローブ初代監督官(ビクトリア植民地初代総督)が貢献しています。

別れの木(分離の木)は、ロイヤルボタニカルガーデンの東北の角、モレル橋前の入口から入ったすぐの場所にあります。

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