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メルボルンデー Melbourne Day 2008
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2008年8月30日(土)午前10時半 メルボルンデー Melbourne Day エンタープライズ公園 Enterprize Parkメルボルン Melbourne この場所の地図 Google Map 曇りの天気予報でしたが、午前中だけは、なんとか薄日が差す晴れの天候でした。メルボルンデーの式典が終わる11時過ぎからは曇って来て、午後は厚い雲につつまれました。 昨年の今日2007年8月30日(メルボルンデー Melbourne Day2007) エンタープライズワーフ、向こうはクイーン橋。このあたりがメルボルン発祥の地です。 1835年8月30日 メルボルンの最初の定住団を乗せた1隻の帆船がヤラ川を遡ってきます。 8月4日にタスマニアのジョージタウンを出発した2本マストのスクーナー『エンタープライズ号』です。 移民を企画したのは、ジョンパスコフォークナー(John Pascow Fawkner)ですが、乗船の直前になって借金のトラブルから乗船できませんでした。 エンタープライズ号が停泊したこの場所は、現在、エンタープライズワーフ(桟橋)として記念公園になっています。 このあたりは、一面の湿地帯でした。シティのエリザベス通りは、当時は川になっていて、エンタープライズワーフの隣、クイーン橋のところで滝となってヤラ川へ流れ込んでいました。 即ち、この場所で飲料水が入手できたのです。エンタープライズワーフは、メルボルンの発祥の地であり、最初の港となった場所です。 エンタープライズ号の乗員 船長のJohn Lancey, George Evans(フォークナーの代理人),Peter Hunter, William Jackson(船の製作者), Rovert Marr, Evan Evans(大工), Charles Wyse(フォークナーの使用人), Tomas Morgan(農夫), James Gilbert(職人), Mary Gilvert(その身重の妻) 当時、メルボルンやビクトリアの地は、NSW植民地ポートフィリップ区(Port Phillip)と呼ばれており、アボリジニ以外は、まったく西欧人が入植していない未開の地でした。メルボルン湾を発見したのは、『レディ ネルソン(Lady Nelson)』号のジョン マレー船長(John Murray)です。1802年2月15日に湾に入っています。10週間後にマシューフリンダース(Matthew Flinders)が『Investigator』で到達しています。 真ん中は、メルボルン市長のジョンソーです。(John So 蘇震西)。 メルボルン地区やヤラ川を発見したのは、チャールズグリム船長です。1803年2月3日にヤラ川を発見して調査しています。 飲料水(真水)が入手でき定住可能とロンドンに報告しています。 しかしその後、メルボルン、ビクトリアの地は手つかずのままに30年が経過します。 これはバス海峡が非常に荒れていたことと、1798年にマシューフリンダースがバス海峡を発見するまでは、タスマニアが豪州の一部と考えられていたためです。 タスマニアは、1803年に英国人囚人の定住が始まりました。1830年頃にはタスマニア全土に植民が行きわたり、新しい開発先を探す必要が出来てきたのです。 タスマニア ロンセストンの事業家ジョンバットマンとジョンフォークナーはそれぞれで帆船を購入し、競ってメルボルンの地に進出してきました。 エンタープライズ公園トップ ノースバンクトップ このページのトップに戻る