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中国からの移民 Chinese Immigrant Melbourne

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2017年6月11日(木)
中国からの移民
Chinese Immigrant Melbourne
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

メルボルンの歴史の中で中国からの移民の活躍は見逃せない。1850年代のゴールドラッシュ期は、中国清朝末期にあたり、多くの中国人がビクトリアにやってきた。その中で多数を占めたのが、英国の植民地と化した香港や広東などのカントンデルタ地帯からの若い独身男性であった。経済的な困窮と中国政治の混乱により家族を中国に残して移民してきたので、成功して中国へ帰ることを夢見ていた。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先優先AE 評価測光 絞り 10.0 1/125秒 ISO感度100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2009年9月5日 10:57
撮影:板屋雅博

 ユーシップ協会、ナンポンスーン協会など多くの共済会が出身地、親族、ビジネスなどでメルボルンの中国人社会の中で形成され、宿屋、信仰、面会所の場所を提供した。

メルボルン中心部のリトルバーク通りにあるチャイナタウンは、金鉱山で働く中国人の為の宿屋、鉱山で使用する道具の販売店、食料品、医療品の売店として発展した。

 急増する中国人に驚いたビクトリア植民地政府は、1855年に入国する中国人に大きな税金を課す政策を実施した。
ビクトリアに入国することが出来ないため、中国船はお隣の南オーストラリアの港町ローブに入国した。
数年間で16,500名もの中国人がローブに到着して、バララットやベンディゴなどビクトリアの金鉱山地区まで約320kmの距離を歩いていった。
金鉱山で貯めた資金は、メルボルンの特にチャイナタウンへと還流し、中華街やメルボルンの発展に大いに寄与した。
初期の中国人たちは主に道教信者であったが、豪州社会への同化のためキリスト教へ信仰を変えた人も多く、そのためチャイナタウンには中国的な概観を残したキリスト教会もいくつか現存している。

 Chinese Monument



1870年代からのマーベラス・メルボルンと言われた繁栄の時代に、チャイナタウンも同様に繁栄した。
しかし1901年から実施された白豪主義の時代に中国人は標的にされて再度、苦難の時代に直面した。

Chinatown
 

 メルボルンのチャイナタウンには5つの中華門がある。4つはリトルバーク通りをまたいで立っているが、ひとつだけ並行している。メルボルンの姉妹都市、中国江蘇省から寄贈された「天国への門」である。ここがチャイナタウンの中心地、コーヘンプラザで、奥には中国の偉人、孫文の銅像や中国人歴史博物館がある。中国国民党メルボルン本部も近くに現存する。孫文が活躍していた1900年代前半は、オーストラリアの首都はメルボルンであり、清国の中国大使館はメルボルンにあった。在オーストラリア大使館は、1912年に中華民国に引き継がれ、1949年に中華人民共和国に引き継がれた。
歴史上、数多くの苦難を耐えて、中国人たちはメルボルンの社会に根付いている。中国正月(春節)の際には多くの客が中華街訪れて、中国社会を楽しんでいる。

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