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グロッシ・フロレンティーノ Grossi Florentino

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2013年4月11日(木)
イタリア料理店 グロッシ・フロレンティーノ
Grossi Florentino
バーク通り Bourke Street
メルボルン Melbourne
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イタリア系移民が多いメルボルンにはたくさんのイタリア料理店があるが、フロレンティーノは、その頂点と云われる。メルボルンの各種料理をふくめてもNo1とも云われる名店である。値段は料理だけではそれほど高くなく記念日などに利用する価値は十分にある。

影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/640 F3.5 ISO感度 200 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2013年1月18日11:02 板屋雅博撮影

古い記述によると1853年にフロレンティーノが立っている場所(80 Bourke)には、フィリップ医師が住むレンガ作りで4部屋とキッチンがある一軒家が建っていた。フロレンティーノの歴史は、1871年にサミュエルウィンズ(Samuel Wynns)がこの戸建を買収しワインショップ「ウィンルーム」を始めたことに起因する。サミュエルウィンズは、本名をShlomo Weintrubで、ユダヤ系ロシアーポーランド人で1913年に軍務を逃れてメルボルンに移民し、その後名前を変えている。ウィンズ一家は、ワインショップの2階で暮らしていたが、1928年にこの場所でカフェデナット(Cafe Denat)を開業した。サミュエルウィンズは、ポーランド時代からワイン作りをしており、カフェデナットをRinaldo Massoni に売却し、クナワラへ移った。クナワラでは息子のデビッドと共にウィンズワイナリーを設立している。

 ウィンズ Wynns

 ロナルド・ミッソニは、1928年にカフェの名前をフロレンティーノに変え、イタリアンの店にした。このイタリアレストランは、非常に繁盛し1930年代には海外にもその評判は広がっていた。1935年に隣の建物も購入し二階のダイニングルームをオープン。オーストラリア150年祭りに合わせて再オープンしている。ダイニングルームを大幅に拡大し、有名な壁の装飾を施している。壁側のテーブルには当時まだ珍しかった電話が供えられ上流階級の評判となった。もちろん料理の値段も高級であった。天井の装飾はPicton Hopkinsによる。柔らかな光を放つ鋳物製のライトは当時の若手芸術家Emilio Gavottoの製作。現在も壁画ルームの壁を飾っている。
フロレンティーノではオーストラリアで始めてイタリアシチリア島のお菓子Cassataを提供したことでも知られている。 マラスキーノ、Alchemes and Creme de Mentheなどの調味料を使うなどの調理の改革を試みている。

 リナルド・ミッソニが1941に他界し、息子のレオンがレストランの経営を引き継いだ。レオンは父親からの伝統を受け継ぎ、パートナーのGeorge Tsindos と共にフロレンティーノの名声を更に高めた。ダイニングルームThe Cllarをオープン。革を張った椅子がカウンターに沿って並べられワインを楽しみながらくつろいだ食事を取る新しい手法を取り入れた。その後、ビストロ・グリルがオープン。毎週3000名のお客がフロレンティーノに押し寄せ、ガスメーターが吹っ飛ぶほどの盛況であった。オーストラリア首相のMalcolm Fraserなどの有名人も多く来ていた。

 レオンはフロレンティーノの持ち分をジョージに売却した。、自身はセントキルダのレストラン・ミッソニの経営をパートナーのピエトログロッシPietro Grossi と息子のGuyと共に行っている。ピエトログロッシ家族は、1960年代にワインと食事で有名な南イタリアのワイナリーからメルボルンに移住。グロッシ一家は、イタリア料理だけでなく文化や生活スタイルの面でもメルボルンに革新をもたらした。グロッシ一家のレストランはメルボルンで有名になり、1999年にフロレンティーノを買収し、グロッシ・フロレンティーノと名前を変えている。息子のガイ・フロレンティーノは、メルボルンの有名レストラン、トラーノ、ミッソニ、Two Facesなどで修業して名を上げた。
ガイは、グロッシ・フロレンティーノのオーナー兼メインシェフとして2003年にダイヤモンド賞を受賞。



 
  ウィン一族

 公式Web

  Wiki

  The Australian

  Guy Grossi

  The Age

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