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2021年9月5日(日)
シスターベラ Sister Bella (responsive)
スナイダーズレーン 9 Sniders Lane
ドレウェリーレーン Drewery Lane
メルボルン Melbourne
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メルボルンのブルーストーンを考える時、まず思うのは都心部に交差する著名な石畳みの路地である。都心の路地は初期の時代は、人間の汚物(night soil)や排せつ物(excrement)をバケツに入れて収集に使用された。現在でもゴミを集めリサイクル容器の収集に使われている。路地はカフェ、バー、レストラン、絵画ギャラリーとして生き生きとした小路として使用されている。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞り 4.5 1/250秒 ISO感度400 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2012年3月15日 


 路地はメルボルンの歴史遺産のインフラであり、法や行政やデザインガイドによって守られている。過去、地元の行政がブルーストーンや敷石を剥がしてアスファルト舗装しようとした際に、愛好家たちが大反対した。メルボルンのブルーストーンを考えるとき、ペントリッジ刑務所、愛情をこめて(affectionately)ブルーストーンカレッジとして知られる、ラッセル通りのメルボルン監獄を思い浮かべる。エレガントなゴシック様式のセントパトリック教会(Patrick’s Cathedral)、残酷なモダニズムのビクトリア州立美術館(National Gallery of Victoria)、セントキルダ通りを数ブロック行くと、ビクトリア・バラックがあり、秋には真っ赤なボストン、アイビーで彩られる。


  古いものは450万年前から連続した時期にメルボルンの北から南西部に火山活動があり、1万年前に溶けた溶岩として地表に噴出した。ブルーストーンが広く均等に分布していることは、どのように形成されたかを物語っている。溶岩がゆっくりと冷却された為に、ブルーストーンは硬くて滑らかに、ほとんど流れることなく、小さな気泡を内包した。ブルーストーンは最も高品質な石材で建物の外壁や表面化粧用に使用される。火山岩が空中を飛んで水に落ちた場合は、急速に冷却され、ガスのポケットが気泡を形成し、時にはハニカム構造( honey-comb effect)となる。メルボルンで使用されているブルーストーンはの品質や色、硬さなどは、石切り場の産地による。



 1837年のスケッチではザフォール(The Falls)にはヤラ川を横切る一連のブルーストーンの飛び石が自然の橋として描かれている。州立図書館蔵。
メルボルンやビクトリアのあちこちで原住民族アボリジニの生活にブルーストーンが使われている。
例えば炭素測定法で6600年前のウナギ取りの仕掛けにブルーストーンが使われている。これは聖なるBudj Bimのコンダー湖(Lake Condah)で発見された。ザフォールは1880年代に撤去された。




 1850年代のブームに沸くゴールドラッシュ期に安くて豊富な明確な建築材料であった。思い重量の石材を切り出して運んだのは囚人の労働力であった。1880年代には、囚人労働力は無くなりブルーストーンは暗すぎることや堅苦しい、禁欲的なイメージで敬遠されていった。
ブルーストーンの建物は砂岩や白い漆喰の縁取りで明るく化粧された。大理石や砂岩が公共建物に採用さえることが増えた。
近年、ブルーストーンがその歴史遺産的な重要性から再度、注目を浴びているが、歴史遺産的な重要性はうつろいやすい基準であり、過去過去への感情によって変わるものである。



  ブルーストーンは、ビクトリアの南西部に広がる洪積世の溶岩で作られている。ビクトリアの玄武岩の平原は世界で3番目に大きいものであり、南豪州と西メルボルンの間に広がっている。ブルーストーンという単語は1850年代に他の地域の灰色の玄武岩と地元のフッツクレイで切り出された岩石との違いをを目立たせる為に作られた。アボリジニの人々はブルーストーンを8000年前からウナギ取りの仕掛けやブルーストーン製ハウスを西ビクトリア湖とのコンダー湖(Lake Condah)であった。メルボルンの最初の石切り場は、1830年代から1840年代に作られた。フィッツロイガーデン、カールトン、クリフトンヒルである。1840年代、多数の帆船がメルボルンにやってきたが、帰りの空船にバランス用にブルーストーンが積み込まれたが、この時期のブルーストーンがの最大用途はバラスト用であった。
英国に出荷されたブルーストーンは、ロンドンのストリートのライニングとして使用された。



 初期のブルーストーン建物は教会と政府建築物であった。メルボルンの最初の大聖堂であるセントジェームスカテドラルは、1839年に建設が始まった。石材は、表面が荒く仕上げ加工がない(unfinished)。メルボルン監獄も1839年に建設が始まったが、セントジェームス教会に比べるとより仕上げ加工されている。標準的な石材加工(masonry-chiselled)された四角形のブルーストーンブロック

このふたつの建物が初期のブルーストーン石材の代表例である。石工職、石工術、石工事、石造建築
メルボルン監獄は、ブルーストーン石材建築物の代表例である。



 1850年代のゴールドラッシュ期までにはブルーストーンはメルボルンの好まれる代表的な建築材料となった。他の選択肢より強く大量にあり作業がし易いことがある。
クリフトンヒル(Clifton Hill)の仕切り場では、カールトンノース(Carlton North)にあったコリンウッド刑務所(Collingwood Stockade)の囚人が働いて、ペントリッジ刑務所の外壁材が1851年に建設された。1860年代、メルボルンの近郊サバーブ、フッツクレイは、石材の都(Stoneopolis)として知られ、住民男性の多くは石切り労働者(quarrymen)と呼ばれた。フッツクレイには1ダースを越える石切り場があった。1870年代にはフッツクレイの近くのブレイブロック村(Braybrook Shire)の石切り場が開発され、道路材料や鉄道バラストに使用された。フッツクレイ石材は、建物や道路、橋のブロック材として使用された。



 ヤラビルでも多くの小規模な石切り場が開発された。1877年にフッツクレイ市当局の地図によると、市は、ボロー石切り場(Borough Quarry)を所有した。大まかにはバララット道路に沿ったMichael McCoy Reserve公園の場所である。Hansen Reserveの場所にも大きな石切り場があった。

ジェームス・ゴーバン(James Govan)は、1870年代にフッツクレイの初期の石切り場を始めた。Summerhill RoadとEssex Streetの交差点の近くに二階建てのブルーストーン製の建物を建てた。1917年頃には石切り場は、同2道路と, Market道路と Graham Streets道路の1ブロックに広がった。1918年には、6000ヤード(5400立米)の石材を一日75立法ヤード(0.9立米)の速度で生産をフッツクレイトラム会社(Footscray Tramway Trust)と契約した。ゴーバンの建物は現在も残っている。建物のブルーストーンは、立地している石切り場で採られたものだ。

 19世紀と20世紀にブルーストーンは主要な建物の建築材料であったが、基礎材として使用された。州議事堂(Parliament House :1855),、メルボルン監獄(old Treasury Building :1858), (Melbourne Town Hall :1867),、セントポール大聖堂(St Paul's Cathedral :1880-1931),、GPO中央郵便局(General Post Office :1861)、フリンダース駅(Flinders Street Station :1905)である。
19世紀後半には石切り場は、ウィリアムズタウン、コバーグ、プレストンなど西部から北部へ広がった。1920年代には、現在、ビクトリア大学フッツクレイ(Victoria University Footscray Park)キャンパスがある場所にFootscray Borough Quarryが開発された。ブルーストーン製の建物は、東部地区よりもメルボルン市内中心部や西部で主流であった。これは輸送コストが理由であり、北部や東部では煉瓦が主流であった。初期のブルーストーン石切り場は、不潔で危険で労働集約的であった。エジプトで数千年前に実施された同じプロセスが行われ、石切り労働者は、くさび(wedges)を打ち込んで(hammering)石を広げて、切り出した。

 プラグとフェザー式(plug and feather)くさびが石材の自然の割れ目や又は特殊なドリルで穴を開けて打ち込まれた。
プラグ◆石やコンクリートなどにねじがしっかり固定されるように、事前に穴に打ち込む、プラスチックや金属製の穴の空いた埋め物。
建物用に使用される石材は、約35センチm角の大きさで正方形の形をして、石切り場から直接に建設現場に運ばれた。

メルボルン市内の通りにあるブルーストーン石材ブロックを丹念に見ていると、石切りプロセスで使われたドリル穴を痕跡を見ることが出来る。また石材の表面に刻まれた刻印を見ることがあるが、これは囚人労働者が自身の存在の痕跡として刻んだものである。


 ブルーストーンの素材は、のみ(chisel)、木槌(malle)、馬鹿棒(malle)、定規などを使って、石工(stonemasons)によって正方形にされ、化粧される。専門の表面仕上げ専門業者が出現したが、大手の石切り場は、独自の石材仕上げ職人を持っていた。

1850年代には、石切り場では、爆発物を使用していた。長い鋼鉄製の棒を使って穴をドリルで開けていた。パウダーモンキー(powder monkey)と呼ばれる火薬係が爆発物を穴につめて、ヒューズ(fuse)に点火した。パウダーモンキーの役割は、非常に危険で石切り場の中で最も給料が高かった。爆発物は、当初は黒色火薬が使用されたが、1800年代後半にはダイナマイトが使用され、後にはゼリグナイトが使用された。

◆1875年ノーベル(Alfred Nobel)によって発明されたニトログリセリン、硝酸カリウム、木材パルプなどから成る爆発物。 ダイナマイトに比べてニトログリセリンがしみ出さない点が優れている。

 フッツクレイの正面加工されたブルーストーンは、1908年のFranco-British展覧会で金メダルを受賞している。専門家は最高品質であると評している。

石切り場は、使用されなくなった後は、単に水が溜まり、ゴミ捨て場となった。1945年頃の航空写真では近郊西側サバーブでは捨てられた石切り場があばた(pock-marking)になっている様子が分かる。多くの旧石切り場は、一時期、木材チップや危険物廃棄場所に使われたが、その後は公園や政府保護地に転換された。
メルボルンの西側近郊サバーブにある孤立した小さなリザーブは、もともとは石切り場であったことが分かる。ヤラビル植物園、ハイポイント、アルトナゲート、サンシャインプラザ・ショッピングセンター、ニューポート湖などは旧石切り場であった。

 旧石切り場の跡地にアパートなどの住居は1970年代に壊滅的な影響を受けている。ヤラビルにあるウィリアムズタウン道路のアンダーソン通り交差点(Anderson Street, Yarraville,)にいくつかのアパートにはひび割れが走り、倒壊した建物もある。これらは解体処分された。ヤラビル沈下アパートメント(Yarraville Sinking Village)は、現在もその場所にあり、開発のあり方を教えている。各住人は、28000ドルの保証金を獲得した。

ビクトリアの南西部では現在も石切り場が運営されており、公共建物や一般建築に使われている。現代ではダイアモンドワイヤ(diamond wire)や複合刃物のこぎり(multi-blade saw)を使って、表面光沢がありなめらかな加工をしている。


 

Gary Vines, including Quarry and Stone (1993); and Professor Stephanie Trigg, including Bluestone and the City: Writing an Emotional History (2017).




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