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マセドンレンジス

カイネトン Kyneton

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2007年5月29日(火)
パイパーストリート
カイネトン Kyneton
マセドンレンジス Macedon Ranges
ビクトリア Victoria
この場所の地図 Google Map
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今日も午前中からどんよりと曇っていました。昼くらいからは、かなりの強い風吹き始めました。午後、3時くらいからは、土砂降りとなりました。メルボルンには珍しい豪雨です。しかし5時頃には、雨も風も止みました。

昨年の今日 2006年5月29日

メルボルンの北西部約120kmの場所にビクトリア州第4番目の街ベンディゴ(Bendigo)があります。

もうすこし西には、ビクトリア州第三の街バララット(Ballarat)があります。 ベンディゴもバララットも金鉱山で栄えた街です。メルボルンからベンディゴまでは、Calderハイウェイで約1時間半です。Calderハイウェイで中間から少しベンディゴよりの場所にこの歴史的な町、カイネトンがあります。昔ながらの街並みの保存状態がたいへん良く周りの景色もきれいなため、近年、観光地として脚光を浴びています。(といってもたいした数の観光客はいません。)左側のレンガ作りの家は、1860年代の建築です。
左側は、人気のケーキ屋さん。右側は、雑貨屋さんです。オーナーのおばちゃんは、今年も昨年も日本へ旅行していて日本通です。(右側の犬の向こう側の小柄なおばちゃん。) 
ケーキ屋 Life's Sweet 59 Piper St
TEL:5422-6226

 旧NSW銀行(Bank of New South Wales)現在は、カイネトン博物館。
1856年建築。1904年に閉鎖されるまで銀行として使われていました。その後は、住居。1969年からは、博物館として使われています。外装は、もちろんこの時代のビクトリアの建物の特徴であるブルーストーンが使われています。カイネトンの街にはたくさんのブルーストーンの建物があります。それだけ資金力があったということを表しています。
カイネトンの街には、金鉱山はありません。しかしメルボルンから金鉱山であるバララット、ベンディゴ、キャッスルマイ、(Castlemaine)への街道筋にあたります。金山で消費する物資の集積地であり、また産出した金の集積地でもあったのです。それによって街には立派な銀行が必要になったのです。


 カイネトンのメイン通りの本屋さん。

1851年7月、人口29,000人の街メルボルンは、晴れてニューサウスウェールズ植民地から独立してビクトリア植民地となったことを祝っていました。そのわずか数週間後に初めての金の発見がメルボルンへ伝えられました。メルボルンから30km北東の小さな街Warrandyteです。同じ1851年にバララット、そしてベンディゴと金の発見が続きます。更にはキャッスルマインでも金が発見されます。特にキャッスルマインは、世界最大の金鉱山と話題になりました。この情報は、瞬く間に世界中への広がりました。この数年前の1848年にはアメリカカリフォルニア州で既にゴールドラッシュが始っており、世界中の人が注目していました。カリフォルニアに乗り遅れた人々がメルボルンへ押し寄せたわけです。


 英国人の定住以前には、このt地区には 先住民族、アボリジニのThagungwurung族が住んでいました。彼らは土地には聖なる魂が宿っていると考えて金などには手をつけなかったのです。金鉱山には川底などにいくらでも金塊が発見されたのです。Mt Tarrengowerでは、特に採掘作業をするまでもなく地表に金塊(Gold Nuggets)が露出しており拾って回るだけで財産が築けたのです。もちろんこの話は、メルボルンから世界へと広まり、更に多くの人をビクトリア州が吸収していきました。
金を拾える時代は、直ぐに終わり、次には川で砂金をろ過作業で探すようになります。人手でろ過処理できる数量は限度があります。直ぐに大掛かりな設備が必要になります。現在、バララットの金山で実演しているのはこのレベルの作業です。実演とは云いながらもまだ実際に金が採掘できます。


 カイネトンカントリーベーカリー。昔ながらのパン屋さんです。
資本も必要になりひとりや数人で金を探す山師の時代は終わりを告げます。次には近代的な企業が資本を投資して大掛かりな設備を構築しての採掘に入ります。ほとんどの鉱山が、構内堀に移行します。トンネルが崩れないように支柱を組みながら掘り進んで行きます。田の時を組むように地中へ掘り進むことから、日本ではタヌキ掘りと言います。ひとつの金鉱山では、数十年の寿命があり約数十トンの金を産出します。総金額は、1000億円に達すると言われています。しかし現在の豪州の場合、世界最大規模の鉄鉱石、石炭の鉱山は、1年間でそれ以上の産出をしていますので、金の採掘はそれらの資源に比べればまったく割りの会わない事業です。

 『Country Habit』
古い民家(昔はホテル)を利用した洋服、雑貨店。おみやげものもあります。
1851年の豪州の人口は、45万人で、そのうちビクトリア州は、8万人弱でした。それが10年後には、豪州の人口が115万人の人口に倍増し、ビクトリア州の人口は、54万人と7倍に膨れ上がりました。豪州の人口の半分はビクトリア州に住んでいました。ゴールドラッシュの影響が如何に大きいかわかります。ビクトリア州では、人口が数十人の町が、金が発見されると数年で数100倍の規模に膨れ上がりました。その人口を支えるのに必要な物資の数もまた膨大でした。その物資を支えるための町がこのカイネトンだったのです。多くの物資が英国から輸入され、代わりに金塊はロンドンに吸収されていきます。今日のロンドンの金融業は、メルボルンの金から始ったのです。

 右側はオーガニック穀物の店です。
Slow Living Organic 54 Piper Street 買い物をするメルボルンからの観光客。 カイネトンの町は、メルボルンが出来てわずか2年後の1837年に最初の定住者が住みつきました。 当時は、トウモロコシなどの穀物を収穫する農家が主でした。 1841年にはタスマニアから羊や牛を連れた牧畜業の人々がやってきました。彼らは最初から大掛かりな牧畜業を目指していました。 カイネトンの名前は、英国にあったKynetonの名前から来ています。 しかし英国のKynetonは、その後、キングトン(Kingoton)に名前を変えています。 小さな農業、牧畜業の街であったカイネトンですが、1851年のゴールドラッシュと共に変貌していきます。 農産物、工業製品の物流の拠点として発展します。 ブルーストーンを多様した多くのビルが建設されます。1857年には市制が敷かれました。

 カイネトンの古い民家。
メルボルンからの鉄道は、1862年に敷設されました。それまでは馬車又は徒歩でこの町まで、更には金山まで向かっていました。メルボルンから野宿をしながら1週間の距離です。

1860年には、豪州縦断を成功させながら悲劇に終わったバークとウィルス(Burke, Wills・・・メルボルンのコリンズ通りとスワンストン通りの交差点に銅像がある。)の探検隊の残党も立ち寄っています。

 カイネトンの市の中心部
タウンホール、時計台、警察本部の庁舎。
この道を真っ直ぐに行くと観光地であるデイレスフォード(Daylesford)経由でバララットへ通じます。
左方向へ行くとメルボルンへのハイウェイへ出ます。

カイネトンへはメルボルンのサザンクロス駅よりEchuca, Swan Hill linesで行けます。


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