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グリーンポイント Green Point ブライトン Brighton

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Brighton

2021年10月03日(日)(responsive版)
グリーンポイント Green Point
ブライトンビーチ Brighton Beach  
ブライトン Brighton
メルボルン Melbourne
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ブライトンは、富裕層が多く住む湾岸のサバーブであり、 Port Phillip Bay市が隣にあり、ノース、サウス、イーストにバウンダリー(Boundary:境界道路)で囲まれている。ブライトンは、ヘンリー・デンディ(Henry Dendy)という個人が5129エーカー(2048 ha)の特別土地測行を実施して開発された。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF2.8 1/3200秒 ISO感度 100 露出補正 -1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2010年12月27日19:01 板屋雅博 撮影

 デンディのパートナーであるJ.B. Wereが富裕な男性を惹きつけた。メルボルン・クリケットクラブのクリケット選手も入っていた。1843年の不況でデンディは破産した。ブライトンは、一時的ではあったが、ポートフィリップ地区(メルボルン)で三番目の大きな町となった。ホテルが1軒、建設され、グリーンポイントは海水浴や他のスポーツの人気地区となった。美しい花々がアボリジニ種族のゴミの山( midden)の周りを覆っていた。畑では当初は小麦が植えられていたが、1850年代に野菜に替えられ、出荷用の畑が1920年代までは東に向かって広がっていた。


 ブライトンの土地2812エーカー(1125ha)の主体であった。1870年にエルスタンウィックとエルウッドの一部がブライトンに加えられ、1914年にブライトンビーチが作られた。1859年に鉄道が内陸部に敷設された際に、社会インフラが強化された。終着駅の整備、1862年にブライトンビーチでの桟橋の建設、ノースブライトンのビーチベイ沿いやミドルブライトンのチャーチ通り沿いの魅力的な家々や店舗の建設。鉄道から距離があったので、海岸地帯の土地は1906年までは保護されたが、電気式トラムがセントキルダから延伸されて、開発が始まった。カメスバーグ(Kamesburgh :1874))のような大邸宅が出現するまでは、1階建ての家屋が主流であった。1880年代に人口が急に増加し、土地の分割が進んだ。

 1854年から1871年頃までは3000名ほどの人口であったが、1881年に4757名になり、1891年には9858名に増加した。土地投機家トーマス・ベント(Thomas Bent)が借入金で土地開発を行った。ベントは地元の実力者で1880年代に5期市長を務めた。宗教的にはアングリカン教会とプレスビテリアン長老派教会が主流であり、メソジストと会衆派(Congregationalists)が小売店主(shopkeeper)や職人(artisans)に人気があった。カトリック教会信者は分散していた。東側は、庭師が多く住み会衆派が多かった。重要な非宗教団体は、志願兵団であった。ライフル兵(Rifles1860年設立)、砲兵隊(Artillery 1865)で1877年に解散した。志願兵団の訓練ホール(1869年)は、ファッショナブルは花卉団体のショーや慈善事業に使用された。

 音楽、文学、ディベート会話などの協会が設立され活動を強めた。ブライトンには多くの作家や文化人が住んだ。Martin Boyd, Marcus Clarke, 詩人のAdam Lindsay Gordon, Henry Handel Richardson and G.W. Rusden. Professor McCoy教授, Judge Higinbothamと建築家の Charles Webbなどである。数多くの私立学校が設立されたが、残ったのはBrighton Grammar School (1882)とHaileybury Collegeのみであった。公立小学校は、1874年にウィルソン通りに作られた。育児院(Orphanage)や、ブリックウッド(Brickwood )、エルスタンウィック小学校が続いた。

 1955年まで高等学校は作られなかった。初期の海水浴マシン(1844)は、ブライトンビーチのケニーのプール(Kenney's Baths)に替わった。市立の海水プールがミドルブライトン(Middle Brighton 1882)に建設されたが、1936年に嵐の被害の後で再建された。1986年に再建された海中隔離式海水プールは、豪州で数少ないものである。ビーチハウスは、しばしば議論を呼んだが、1850年代から現れた。ヨットクラブは1875年、ミドルブライトン桟橋が1877年に建設された。海岸沿いのエスプラネード通りが1873年に作られた後、ウェアーズは、グリーンポイントや夏のカーニバル、海岸、ビートハウスなどを含む最初の公共テラスの売却を計画したが失敗した。


 ビーチハウスは、1904年と1918年の暴風雨で大破した。大戦中は、赤十字活動が行われた。カムズバーグ(Kamesburgh)は、第一次大戦中は戦傷者の為のアンザックホステル(Anzac Hostel)となった。1920年にはウェールズ公が訪問した。予備兵訓練ホールは1919年ー20年にインフルエンザ病院として使用された。
セントキルダ路面電車は、ゴールドコーストとも呼ばれる沿岸地帯に住民の増加をもたらした。ホーロン道路トラム(Hawthorn Road tram:1923年)に開通した為に、市場用野菜畑(market gardens)が1960年までに消滅した。市当局は、初期のLandcox Hurlingham parks.に加えてDendy Park(66ha) を購入した。これにより1921年の21235人から41033人と倍増した。1981年には33700人に減少した。

 近郊サバーブの中ではブライトンはアパートの割合や働く女性が最も低い。自宅保有率が最も高く、工場は最も少ない。市当局は、条例により安っぽい高層住宅を制限し、ネピアンハイウェイへの量車両を制限するなどでて現状維持を図った。ネピアンハイウェイは1982年に道路幅を拡張した。1929年にはエスプラネード通りの拡張を阻止して、1996年に自転車道路を整備した。1956年のオリンピックで使用されたヨットクラブの防波堤が劣化して、大規模な補修が行なわれた。20世紀のブラントンの著名人は、
Margaret Baskerville, Elizabeth Bleasby (Bent's daughter), Marie Breen, Percy Grainger, Sidney Nolan, C.D. Richardson, Alan Stockdale and Jock Sturrock.

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