シティ案内

今日の一枚へ戻る

バラクラーバトップ

バラクラーバ駅 Balaclava Station

メルボルン百景トップ


2007年11月1日(木)
バラクラーバ駅 Balaclava Station
バラクラーバ Balaclava
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

天候が回復しません。それどころか明日からは更に寒くなる見込みです。最高気温も20度からどんどん下がっています。週末は雨の見込みです。11月に入ったというのに冬の服装のままです。

昨年の今日2006年11月1日(クリスマスツリー)


バラクラーバの駅から北のウィンザー駅方面を見て。

バラクラーバは、セントキルダの東、ウィンザーの南に位置します。しかしそのユニークの背景により独特の雰囲気を持った街です。
バラクラーバは、クリミア半島にある現在はウクライナ国の都市の名前です。
1854年クリミア戦争のバラクラーバの戦いからこの名前がつけられました。 1800年代はヨーロッパ列強が帝国体制(ウィーン体制)を強化した時代です。英国、フランス、ドイツは東ヨーロッパ、アフリカ、アジア、豪州へ植民地を拡大していきます。メルボルン植民地が成立したのは1851年です。バルカン半島では強大であったオスマントルコ帝国の勢力が弱まってきて、代わってロシア帝国の力が台頭してきました。ロシアの南下を恐れる英仏オスマントルコ同盟軍とロシアの戦いとなったのがクリミア戦争です。

Port Phillip Online

Carlisle通り。正面の鉄道橋にかかるのは
Lady St Kilda号の模型。
カフェ 『Wall two 80』参照

バラクラーバにはクリミア戦争から取った名前がたくさん残っています。インカーマン通り(Inkerman Street Carlisle通りの1本北側の通り)は、やはりクリミア戦争のインカーマンの戦いから来ています。Sebastapol Streetは、Sebastapolの包囲戦、Alma Roadは、アルマ川の戦い、Malakoff Streetは、マラコフの戦い、Crimea Streetは、もちろんクリミア戦争から来ています。Nightingale Streetは、この戦いで活躍した看護婦ナイチンゲールから来ています。


 豪州はイギリスが参戦した多くの戦争に参戦していますが、クリミア戦争には参戦していません。まだ植民地として成立したばかりでヨーロッパに兵隊を送るだけの実力はありませんでした。
1856年にクリミア戦争が終わり、戦争から逃れた多くのロシア人がこの地に住みつきました。
バラクラーバには、多くのロシア人、アルメニア人などクリミア半島、バルカン半島の人々が住んでいます。専門のパン屋、惣菜屋が数軒あり、メルボルン中からロシア人などが買い物にやってきます。

クリミア戦争とバラクラーバ The Age

クリミア戦争当時、日本(長崎)を訪問していたロシア全権使節プチャーチン(海軍少将)が、1854年に日露和親条約を締結するとすぐさまロシアへ帰ったのはクリミア戦争により本国自体が危険な状態であったからです。

ビクトリア時代と続くエドワード時代の建物を多く残しているバラクラーバの街並み。
この通りを海側にまっすぐに行くとセントキルダの中心部の繁華街のアクランド通りに至ります。

このページのトップへ

inserted by FC2 system