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カフェ 『Wall two 80』通称『Wall』 バラクラーバ

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2006年10月12日(木)へ
16時00分

カフェ 『Wall two 80』通称『Wall』
バラクラーバ Balaclava
(セントキルダ St Kilda) 
Melway 2P−H9
今年初めて35度を記録しました。
もう1ヶ月ほども快晴が続いています。
天気予報では26度と言っていたのに、ついに35度になった模様です。

公式web
写真集
The Age


昨日までの画像
↓この下に追加画像があります。

レディーセントキルダ(Lady St Kilda)
セントキルダは、メルボルンでは非常に有名な名前です。一大繁華街であり、地区(サバーブ Suburb)の名前であり、また有名な道路の名前でもあります。セントキルダは、『レディーセントキルダ』号の名前から来ています。
レディセントキルダ号は、1841年にメルボルンに寄航しており、それを記念して名前がつけられました。レディセントキルダ号の持ち主は、Tomas Dyke Acland卿です。もちろんセントキルダのAcland通りはAcland卿から来ています。セントキルダのもともとの名前は、スコットランドのセントキルダ島から来ています。

電車の高架の向こう側にWall two 80が見えます。バラクラーバ(Balaclava)の駅は、この直ぐ左側です。
サンドリンガム線(Sandringham line )でフリンダース駅から5つ目の駅です。
電車路線図(シティから真っ直ぐ下へ)
トラム3
トラム79

Wall two 80

このカフェはバラクラーバを代表するカフェです。店の中にもテーブルがいくつかあって食事をすることができます。

バラクラーバは、サバーブとしては独立していますが、一般的にはイーストセントキルダ(East St Kilda)に属していると考えられています。
この地区の特徴は、ユダヤ人移民が多く住んでいることです。ポーランド、ロシアからの移民です。第二次世界大戦で多くのユダヤ人が迫害されました。ナチの強制収容所アウシュビッツ(Auschwitz)はポーランドにありました。第二次世界大戦の混乱により多くのユダヤ人がメルボルンに移民してきたのです。ユダヤ人に限りませんが、メルボルンは、迫害された人々にとっては約束の地だったのです。


テイクアウェイ(take away)専用窓口
米語ではテイクアウト(take out)です。

いまでもセントキルダ、イーストセントキルダ、バラクラーバ、リッポンリーの界隈には敬虔なユダヤ人がたくさん住んでいます。超正統派ハシディズム (Hasidic Judaism)と呼ばれる人々です。この界隈にたくさんある教会(シナゴーグSynagogue)に家族そろって金曜日の夜に礼拝に出かける姿を見かけます。ユダヤ教では金曜日が休日です。男性も女性も、黒い服に黒いシルクハット(女性は黒いレース)、男性はひげをはやしているので直ぐにわかります。



夕方のひと時をカフェでのんびり過ごすバラクラーバの住人。地元の人という雰囲気です。

バラクラーバは、メルボルンのちょっとだけ郊外になります。正面の通りは、Carlisleという通りです。右側へ真っ直ぐに1kmほど行くとセントキルダの繁華街であるアクランド通りにぶつかります。電車でシティへ向かって二駅目でプラーンです。

セントキルダは、メルボルンの開発初期(1850年代)のゴールドラッシュの頃からビーチ地区の高級住宅街として発展しました。1880年代建造の本格派石造りのマンションが多く残っています。しかし1890年代に没落が始まります。メルボルンからトラムがセントキルダまで延長されたために、ビーチ近くの街は、労働者の繁華街となりました。多くの富裕層はセントキルダを嫌ってブライトン(Brighton)などへ映っていきました。

セントキルダのタウンホール
1890年建築
バラクラーバの駅の近くでセントキルダ通り(ネピアンハイウェイ Nepean Hyway)沿いにあります。
設計としてはサウスメルボルンのタウンホールに似た時計塔を作る予定だったのですが、資金難により実現しませんでした。

バラクラーバは、セントキルダとともにポートフィリップ市(City of Port Phillip)に属します。

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