2019年1月2日(木)
ビールの普及
日豪プレス2020年2月号 No43
メルボルン Melbourne
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メルボルンの人々の暮らしに取ってビールは欠かせないものであった。初代メルボルン市長ヘンリー・コンデルは、ビール醸造業者であり、メルボルン中心部のリトルコリンズ通りに醸造所(ブリュワリー)を作った。当時のビールは、英国やタスマニアからの輸入品で大変高価なものであり、コンデルのビールは飛ぶように売れ、財産を作ったコンデルは、市長になった。ただしかなり粗悪なビールであった。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/320 F9.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2016年1月16日15:47 板屋雅博撮影
豪州で最も古い起源を持つカスケードビールは、デグレーブス兄弟が、タスマニアのホバートでカスケードビール会社を設立し、1832年にビールの製造を始めた。ホバート郊外の山の滝から新鮮な飲用水を引き、良質なホップを使用した最初の本格的なビールを作りだした。初期の時代には、大量のビールがタスマニアからメルボルンに持ち込まれた。英国からの超高価な輸入ビールか、劣悪な地元アルコールを飲むしかなかったが、カスケードビールがその状況を一変させた。
1850年代に入るとメルボルンでも本格的にビールの製造が始まった。
メルボルンで最も飲まれているビクトリアビターは、1854年創業のビクトリア醸造所によって製造が開始された。
1852年にはモルトの製造も始まり、リッチモンド・モルティング工場は、豪州で最も古いビール用モルト製造工場である。まだ電気がない時代の1856年に石炭ガスをエネルギー源として、メルボルンの発明家、ジェームズ・ハリソンが飲料用ビール冷蔵装置を開発した。ビクトリアビールやカールトンビールなどが冷えたビールを市内のパブに供給を開始した。日本が江戸末期の頃に、メルボルンでは冷えたビールが市内のパブで楽しめた。
しかし夏の暑さの中で製造されるビールの品質は悪く、英国リバプールからの移民、エドワード・レイサムがカールトン醸造所を1864年に建設したのが、メルボルンの本格的なドラフトビールの始まりであった。
1883年にビクトリア醸造所のベンディゴ工場で、豪州最初のラガービールの製造に成功した。
1800年代後半にビールの品質を劇的に改善する方法がアメリカで発明された。 煮沸後の麦汁を酵母による発酵のために冷却することである。1887年に最新の技術と設備を持ってフォスター兄弟がニューヨークからメルボルンにやってきて、ラガービールであるフォスタービールの製造を開始した。
1900年頃には、多数のビール会社が安売りをした為に、各社の経営が極度に悪化した。
1901年にオーストラリア連邦が成立し、ビール製造法が施行され、粗悪なビールの製造が禁止された。そのためカールトン、フォスターズ、ビクトリア、リッチモンドなどが、合併してカールトン&ユナイテッド社(CUB)が結成された。
2019年にアサヒビールは、CUB社の買収を発表している。豪州のひとり当たりのビール消費量は世界で最も高いレベルであり、人口が増える中で、まだビールの歴史は続く。
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