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日本

有田の陶磁器

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2019年5月2日(水)
有田の陶磁器
武雄市武雄温泉
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有田の陶磁器市。1592年秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた陶工、李参平が1616年に白磁鉱の泉山陶石を発見して有田磁器生産が始まった。

撮影データ i phone XR 絞りF1.8 1/1205秒 ISO感度 25 露出補正 オート 2019年4月27日15:19 板屋雅博 撮影

有田陶磁器祭り

 文禄・慶長の役 1592年から1893年の文禄の役と、慶長2年1597年から1598年の太閤豊臣秀吉の死までの慶長の役

李参平 小城郡多久に住み、ここで1599年から陶芸を始めが、納得のいく陶器を作るに至らず、多久の支援のもと磁器生産に適した白磁石を求めて鍋島領内各地を転々とする。 西高麗谷に12年ほど住み、のち西多久、藤の川内に移る。最後に有田西部地区の白川山に落ち着き築窯。1616年に良質で大量の白磁石を発見し、天狗谷窯(白川)の地で日本初の白磁器を産業として創業した。これが有田焼の起こりである。


手塚家・・・大正期、入母屋作り平入り
特徴は大型化、間口が9間(16m)、窓が7か所
外壁は灰色の漆喰、西側に土蔵を配置

 
1640年代に初代酒井田柿右衛門により赤絵などの色絵磁器が製造技術が完成した。
柿右衛門の初酒井田円西代、第二代酒井田喜三右衛門の親子である。柿右衛門を名乗ったのは喜三右衛門である。乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式(後述)と呼ばれる磁器の作風を確立した。親子ともに1860年代に没している。


酒井田柿右衛門

炎の里有田の歴史物語

有田焼

井出家・・・明治期、元地主


  オランダ東インド会社(VOC)は明の景徳鎮から陶磁器を欧州に輸出していたが、清国は1656年に輸出を禁止。VOCは長崎出島を通して勃興期の有田から大量の陶器を買い付けた。江戸中期には70年間で200万個の有田磁器を輸出した。輸出は伊万里港であり輸出梱包荷印「Imari」により、欧州では有田焼きは伊万里と呼ばれ、日本では古伊万里と総称された。

オランダ東インド会社
 
辻家 
宝永3年(1706年)、上幸平の辻家4代の喜平次愛常に朝廷から磁器を直納するようにとの命令が下り、天皇の言葉を書いた書「綸旨(りんじ)」と天杯を賜った。 仙台藩主の伊達綱宗は、江戸の陶商伊万里屋五郎兵衛を介し、辻家3代目の喜右衛門がつくった染付磁器を御所に献上します。 霊元天皇)が大変喜び、佐賀藩主鍋島光茂に命じて、辻家の磁器を「禁裏御用達」とする勅諚を下した。天皇家で使用される器は鮮麗な青花白磁になります。 明治8年(1875年)に香蘭社が設立されるにあたって、当時の当主・辻勝蔵が創設メンバーに加わっています。勝蔵の姉セイは八代深川栄左衛門(1832〜1889年)に嫁ぎ、辻家と深川家は姻戚関係を結びました。香蘭社が創業時から宮内庁御用達となり、明治・大正・昭和と続く激動の時代を生き延びて大きく躍進することができた理由のひとつには、18世紀から続く辻家の精巧な染付の技術を受け継いだことがあると言える。


有田焼きが欧州で広まった頃に、コーヒーも欧州で広まり、有田焼きとセットで販売された例もある。オランダ商人が独占していた為、オランダは莫大な利益を上げた。1800年代初頭、オランダ本国が仏ナポレオンに占領されて国力が激減し、変わって英国が台頭。佐賀藩は福岡藩と共に長崎の警備に当たる一方で海外貿易権も持っていた。

今泉今右衛門の江戸時代の作業所
2下の瓦に赤絵具が付着している。

今右衛門窯

今泉今右衛門家は370年の歴史と伝統を誇る窯元。江戸時代は、鍋島藩による将軍家への献上品として造られた色鍋島の御用赤絵師を継承した家系。明治以降、今右衛門窯として、最盛期・色鍋島の復興に努め、国の重要無形文化財の保持団体として認定を受け、現在の当主十四代は、江戸期より鍋島でよく使われた「墨はじき」という白抜きの技法を駆使した作品で、現代の色鍋島の品格と風格。

 江戸末期の混乱期に佐賀藩はオランダ独占後、英国などとの多国貿易で莫大な利益を上げ、欧州から多数の軍艦や武器弾薬を買い付け、自藩でアームストロング砲などを開発し、佐賀藩の軍事力はプロシャに匹敵するほどになった。
薩長土肥による明治維新に、有田の磁器は大きな役割を担った。

コ永家 昭和4年頃の建築
入り妻町家の典型
コ永家は陶磁器卸商

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