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移民百年記念陸橋 Centenary Bridge

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2014年8月31日(日)
移民百周年記念陸橋
センテナリー・ブリッジ
Centenary Bridge
ポートメルボルン Port Melbourne
メルボルン Melbourne 
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メルボルン湾のステーション ピア からすぐ近くにセンテナリー・ブリッジの記念碑が建てられている。かつてこの場所にあった陸橋の橋げたをそのまま記念碑としたもので、唯一の残存物でもある。センテナリー・ブリッジはオーストラリア最初の鉄道であるポートメルボルン線(フリンダース駅-ステーションピア駅線)に架けられた陸橋であり、既に解体されている。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 11.0 1/500秒 ISO感度200 露出補正 オート JPG レンズ EF 70-200mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2014年1月12日 17:02


 メルボルンは1835年にタスマニアからの不法移民により移民の歴史が始まった。1934年、ビクトリア州は移民100年記念式典を企画した。英国から王室ファミリーを迎える計画を立てジョージ5世王の息子のプリンスジョージを迎える計画であったが、ギリシャとデンマークを支配する王族のマリーナ王女と婚約した為に、ヘンリー王子(グローセスター公爵)が代わりに豪州へ来ることになった。
王室ファミリーの来訪はメルボルンに取って大きな関心事となり、どこの港に着岸し、どのように歓迎されるかが大きな話題となった。
セントキルダの人々はセントキルダ桟橋にお迎えし、セントキルダ通りで歓迎パレードをする計画を立てた。一方でポートメルボルンはステーションピアでお迎えするべきであるとして、互いに譲らなかった。.

左奥の白い建物はロンドンホテル。
The London
  
  1933年の前半は多くの議論が噴出していた。ポートメルボルンには当時湿地帯が広がっており、これは都市のゴミ捨て場と化していた。ポートメルボルンの人々は王室ファミリーを迎えるのに相応しくないとの議論が出てきた。ウィリアムズタウンロード又はビーコンフィールズロードを百周年記念道路とする案が出たが、1933年9月に当時の鉄道局長官のMr H Clappによって否決された。これはポートメルボルン線の鉄道交通量が非常に多く、平面交差の道路では王室ファミリーに不便をかけることになる可能性があるからであった。


 ステーションピア桟橋は多くの移民が欧州やアジア、世界中から押し寄せた為に1920年代に大がかりな近代化改修が行われた。
王室訪問の10年ほど前に1924年にメルボルン港湾局(Melbourne Harbor Trust (MHT) )はポートメルボルン市当局に対して立体交差陸橋建設の提案をしていた。MHTが費用の半分を分担し、市当局など関係者で残りを負担するというものであった。しかし全ての負担はMHTがすべきとして市当局は提案を拒否していた。百周年記念道路の話題として立体交差建設の話しが再度、持ちあがったと1933年12月23日のレコード誌の記事に記載された。1933年12月に建設コンペが実施された。12の橋建設案がポートメルボルン市に提案された。費用や約6万ポンドで3分の2をMHTが負担し、残りを州政府が負担することになり、州政府は土地をMHTに分譲した。


 1934年に建設業者のHancock and Clayton、建築家Hughs and Orme, エンジニア WG Dempster, JJ O'donnellが受賞しセンテナリーブリッジの建設が始まった。当時は第一次大戦後の不況の真っただ中であり、労働者は職業安定局が担当し、ほとんど全ての建築資材はオーストラリア製とされた。

英王室ヘンリー王子は1934年10月18日に英国軍艦サセックス号からプリンセスブリッジ橋に上陸した。ポートメルボルン市長による歓迎の後、百周年記念陸橋を通り、ビーコンフィールドを通ってセントキルダまで行き、フィッツロイ通りからセントキルダ通りへ入り、最後はシティのプリンセル橋、スワンストン通りを通ってメルボルンタウンホールへ到着した。プリンセスヘンリーは戦争記念館のオープニングセレモニーも行っている。

プリンセス桟橋

 当時のポートメルボルン線は、4本の鉄道が引かれており、記念陸橋はその上を跨ぎ、ビート通り沿いに305mの長さがあった。ビーチ通りが鉄道の上を通り、中央からステーションピアへも降りることが出来る美しいものであった。




オーストラリアやメルボルンへの移民の数は減ってはいないがほとんどが飛行機で来る時代となりステーションピアは観光船やタスマニア号の為の桟橋となった。移民百年記念陸橋も事実上の役目を終え、交通の邪魔になっており、1991年に州政府によって解体撤去された。


右奥の建物はスイミングプールを持つ立派なスポーツジムであったが、2014年1月には無人の空家となっていた。

MELBOURNE ART DECO


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