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キウコテージズ子供精神病院 Kew Cottages 2022年5月14日

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2023年5月14(日) (responsibe版
キウ Kew Cottages
キウ Kew
メルボルン Melbourne
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キウの少年宿舎は、1887年5月にキウ精神病院の薄弱児区域(Idiot Ward)としてオープンした。またの名をキウ薄弱児病院(Kew Idiot Asylum)と云い、精神に欠陥がある( feeble-minded )子供たちのケアや訓練を行う施設を意図したものであった。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 1/1000 絞りF3.5 ISO感度 100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L 2020年1月21日15:22 撮影:板屋雅博


知的障害がある人々の可能性に前向きな考えがある時代に設立されており、創設者は施設が患者を実用性がある人生(lives of usefulness)の為に訓練することを期待していた。
しかしながらそのような希望は、家族が子供たちを施設に入れると決めた理由のひとつに過ぎなかった。施設の入所規則に沿ったものであった。(as requests for admission to the institution reveal)




1887年末には病院に暮らす患者数は54名に達した。開所後数年で患者数は急速に増加した。施設の住居には1897年には203名の居住者に増えた。居住者の増加は、生活状況の悪化の結果となった。特に1890年代の不況の時代に顕著となった。切羽詰まった少数の職員(hard-pressed )は患者に対して不適切な対応をするケースがあった。





それまでは大人の患者と一緒の部屋に入れられていた精神病院の子供の患者に分れた宿舎が精神病院の土地の一角に設けられた。宿舎は、子供の患者だけが認められたが、多くの子供たちは大人になっても入居していた。施設の機能は、知的障害がある子供たちに宿舎を与えることと、教育的機関であった。孤児院(Wards of the State)でもあり、問題児(difficult" children)の入所も認められていた。オープン後まもなく薄弱児区域は、キウ精神病院(Kew Lunatic Asylum)とは別の施設として運営され、キウ精神薄弱病院(Kew Idiot Asylum )として1887年から1929年頃まで知られた。




 精神に欠陥がある人々への訓練学校としてのキウコテージの終末を迎えた。
この時に、知的障碍者の可能性に対する楽観視は、精神障害者は、オーストラリア人の未来に対する脅威であるという恐れであり、社会を守る為に、障害者施設は永遠に閉じ込められるべきであると置き換えられた。

1929年からは、キウ子供たちのコテージズ(Children's Cottages, Kew)又はキウコテージズ訓練センター(Kew Cottages Training Centre)として知られた。1996年4月に30歳から40歳までの9名の男性患者が火事で亡くなった。当時、繋がった屋根のふたつのコテージズに25名が暮らしていた。施設は2008年7月に閉鎖され、土地は2001年から2006年にかけて再開発された。

 社会の一部の人々は知的障害の患者を恐れて、患者の隔離を扇動したが、他の人々は患者の人生を明るくすることに努力した。

1907年に腸チフスの疫病(typhoid epidemic)が大流行して、キウコテージズを襲い、多くの患者と職員が亡くなった。
教室はその場しのぎの(makeshift)の隔離病棟になり、授業は中止された。



身体的訓練に使われるた方法は英国の学校と同じであった。軽いダンベル( light dumb-bells)、秩序ある行進、階段状ステップの上の歩行、腕や体を使った繰り返し運動、少年たちは庭作業、少女たちは洗濯場での作業などであった。



14名の少年は、ドアマットの制作に従事した。バスケット籠の制作は難しかったが、一定量のバスケット、椅子、長椅子(couches)、筆などを作った。
精神障害の子供たちの教育は、4つのパートに分れた。身体(physical)、精神(mental)、道徳(moral)、技術訓練(learning trades)である。
精神能力訓練は、この学校で開発された。作文能力の改善や簡単な単語(色、時計、店舗など)の理解などであった。学習は有効であり、多くの子供たちは一律に参加して、楽しんだ。
3つのコテージがあり、教室、食堂、遊び場、キウ精神病院の本館から近い場所に作られた。



学校、遊び場(play-rooms)、離れ家(out-buildings)がキウ精神病院に作られたが、60名の子供たちの宿舎も建築された。子供たちはキウアサイラムから移された。職員はキウコテージの一般作業を行う係員から成っていた。
コテージの学長は、イングランド北部のロイヤル・アルバート子供精神病院で8年間の勤務経験があった。就任後、全ての決定や指示は、薄弱児施設自体で検討し、下され、状況は大きく改善された。


薄弱児病院のスタッフ
キウ精神病院のスタッフからのサポートがあり、医療実務は実施された。
、規定(statutory)事務や、一般事務を行った。ファーム・バリフ、技術、管理社(Farm Bailiff)がサポートを行った。このことにより一定の作業費の低減となった。
男性病棟部長は、男子病棟の管理を行い、女性病棟部長は、女性病棟の管理を行う。両管理部長は、学校全体の管理監督を担当していて、実際の授業などは教諭が実施した。4名の先生がいて、男性教諭1名は年長の男子、女性教諭1名は年長の女子、2名の女性教諭は、年少の男子女子を担当した。
授業では回数練習ドリル、身体文化(physical culture)が行われ、非常に大切な事は子供たちの健康と訓練であった。クラスの人数は現在の感覚では人数が多かったが、財政的な面で教師の数を増やすことは出来なかった。ベテラン看護婦とベテラン係員は、監督教師を施設の全般に渡ってサポートし、不在の際には交代要員となった。男性職人として、庭師、建物保守員、調理師がいた。
女性職人は、調理師、洗濯を受け持った。12名の係員(attendants)と21名の看護婦がいて子供たちの世話をして、施設で必要な作業を行った。
1名で10名の子供患者を受けもち、2名の係員と2名の看護婦が担当者の休日用に備えた。約3分の1の子供たちは、てんかん症(epileptic)であり、多くの子供は精神薄弱、物覚えが悪く(backward)、ひとりで食事が出来ない、やりたいことが自分で出来ない、また出来が良い子供の一定数は、行動が良くない( dirty in their habits)などが問題であった。
この為、看護婦や洗濯の仕事は非常にたいへんであった。

キウ精神病院 Kew Lunatic Asylum
別名 ウィルスメア病院 Willsmere Hospital
建設:
営業:1871年~1988年
小規模には、1856年より開始
建築家:G.W. Vivian、Frederick Kawerau
ビクトリア公共建築局
建築様式」:イタリアン Italianate 
優雅で美しく、また実用的な建物である。精神病患者にとっての素晴らしい病院であり、他の精神病院が刑務所に似た建物であったが、メルボルンが慈愛に満ちた近代都市でありことを示す様な建築物であった。垣根が低い壁(ha-ha walls)を使用し、広範囲に景観を作りこむなどを行っている。
メルボルンへの文化的、歴史的な観点を長い間考察した結果、1978年3月に州遺産に登録された。

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