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ウィリアムズタウン

ポイント ジェリブランド

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2007年11月23日(金)
ポイント ジェリブランド
Point Gellibrand
ウィリアムズタウン Williamstown
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

今日の午前中は、まだおとといの雨雲の残りが多少残っていました。気温も20度程度でフリースの上に更にジャンバーが必要なほどでした。午後からは天気予報どおりにきれいに晴れ渡りました。しかし気温は低いままです。

昨年の今日2006年11月23日(セントポール大聖堂)

メルボルン湾を入港してくる外洋コンテナ船。香港の会社OOCL(Orient Overseas Container Line )です。

ポイント ジェリブランド
ウィリアムズタウンは、メルボルンと同じ1835年にタスマニアからの違法移民によって定住が始りました。1836年に植民地行政官のロンズデール大佐を派遣したNSW植民地のバーク総督は、1837年にウィリアムズタウンを訪問して、メルボルン及びビクトリア植民地を外敵からの侵略から守るためにここに軍港を築くことを命じています。この時期、外敵は主にはフランス、ロシア、プロシャなどのヨーロッパ列国のことです。ウィリアムズタウンに軍港が築かれ、このポイントジェリブランドに大砲9門を持つ本格的な要塞が築かれました。要塞の建築には主に英国から送られてきた600名の囚人が従事しました。9歳の子供まで含まれています。1860年頃に完成したジェリブランド要塞は、豪州で最初の要塞です。

ポイントジェリブランドのもうひとつの重要な役割は、ブルーストーンの石切り場でした。メルボルンや周辺の都市の1800年代の主要な建物は全てと言っていいほどブルーストーンが使われています。2枚目の画像は、ブルーストーンの石切り場の跡地です。1838年から採掘を開始しています。ここでも主要な労働力は囚人です。病院設備もなく貧弱な施設の中で多くの囚人がなくなっています。ブルーストーンは、ゴールドラッシュで急速に発展するメルボルン、ビクトリア州各地の多くの建設物、鉄道、港湾施設、英国や欧州から物資を運んできた帆船のバラスト(重り)として広範囲に使用されました。


英国へと続くメルボルンの海。

現在でもポイントジェリブランドは、豪州海軍の訓練基地として実際に使用されています。また豪州で最初の電信連絡所が建設されたのもこの場所です。当時のメルボルンは、世界からまったく切り離された場所でした。英国からの連絡船が到着するのに3ヶ月から半年がかかります。手紙が往復するのに半年から1年が必要だったのです。またシドニーなどの他の植民地との交流もほとんど進みません。電信の導入は、今日のテレビ、電話、コンピューターをはるかに凌ぐ最新機器であったのです。

Parks Victoria
ポイントジェリブランド灯台

ジェリブランドは、タスマニアのジョンバットマン(John Batman)のポートフィリップ事業団(Port Phillip Association)に参加したJoseph Tice Gellibrand に由来しています。彼は英国ロンドン生まれの有能な弁護士でした。当時バンディーメンズランドと呼ばれていたタスマニアの司法長官に1823年に任命されています。しかし植民地総督の悪名高いジョージアーサー(Sir George Arthur)と意見が合わずに1826年に解任されています。1835年のジョンバットマンのメルボルン開拓に参加しましたが、1837年に探検に出かけて行方不明になっています。

静かなポイントジェリブランドの海。正面を回り込んだ右奥は、ウィリアムズタウンビーチが広がっています。

ウィリアムズタウンは、Gem桟橋を中心としたレストラン街が中心地ですが、タイムボール灯台から、ポイントジェリブランドの要塞、ウィリアムズタウンビーチと見所がたくさんあります。

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