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キャプテンクックの生家

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2007年2月1日(木)(今日の一枚へ戻る
キャプテンクックの生家
Captain Cook's Cottage
フィッツロイガーデン Fitzroy Garden
メルボルン Melbourne
Melway 2G−B4

今日も快晴の一日でした。最高気温は27度まであがりましたが、湿度が低いため、ほとんど汗もかかず快適な一日でした。しかし日差しがきついのでサングラス、日焼け止めは必需品です。

クック船長の家 おとな $4 学生など $2.5 子供 $2 ナショナルトラストパス $2.5
英国国旗ユニオンジャック(参照)が上がっています。

キャプテンクックの生家
右側の銅像がキャプテンクック

クック船長は、1728年(将軍吉宗の頃)に英国ヨークシャーのGreat Aytonの農家に生まれました。父はスコットランド人の労働者、母はヨークシャーの人です。地方の農家にしては立派な家です。18歳の時から徒弟として石炭運搬船で働きました。この時代、イギリスでは産業革命が進み、石炭をエネルギー源とする各種の工業が進み、石炭運搬船が海運業の中心的な役割を果たしていました。クック船長は、この間に数学と航海術をここで勉強ました。1755年に商船で昇進していたにも関わらず、海軍に入隊しました。大英帝国が発展し海外に植民地を展開する様子に刺激されたのです。

豪州伝記集(James Cook)

City of Melbourne (Cook's Cottage)

海軍に入ったクック船長は、入隊後1ヶ月で一等航海士に昇進しました。1755年から1766年までは、カナダでの英国海軍の作戦に従事しました。主な役目は、優れた航海能力のために未探検地区の調査と海図の作成でした。この時点で英国海軍の中では最高レベルの航海士となっていました。1766年にイギリスの科学学会である王室学会の要請により天文観測の目的で、クック船長は南太平洋に派遣されます。地球上の離れた2点から金星を同時刻に観測し、天文緯度の差から地球と金星の距離を測るという壮大な天文観測計画です。クック船長の第一回目の航海です。船は、有名なエンデバー号です。(HMS Endeavrour)
米国のスペースシャトルエンデバー号は、クック船長の旗艦に由来します。

天文観測が終わるとクック船長は、南太平洋の調査を開始し、1769年10月6日にニュージーランドに到達しました。ニュージーランドは、1642年にオランダの探検家アベルタスマン(タスマニアの由来)によって発見されていますので、クック船長は、ヨーロッパ人としては2番目です。クック船長は、NZを詳細に調査して地図をつくり、南島と北島を分けるクック海峡を発見しました。NZの調査を終えたクック船長は、当時はバンディーメンズランドと呼ばれたタスマニア島を目指します。しかし暴風に会い北側へ流されたクック船長とエンデバー号は、オーストラリアの東海岸(NSW州)へたどり着いたのです。1770年(将軍家治、田沼意次)のことです。オーストラリアデー参照
シドニーを出発したエンデバー号は、北へ向かいグレーとバリアリーフで遭難したり、カンガルーを名付けたりしています。
カンガルーの話参照。

クック船長は、メルボルン、ビクトリア州には来たことがありません。
1933年にイギリスの新聞にある広告が載せられました。オーナーがクック船長の生家を800ポンド売りに出されたのです。2週間後に買主が現れました。豪州人Sir Russell Grimwadeです。しかしオーナーは、後にイギリス国外へ持ち出すことに反対しました。しかし契約書には、大英帝国国内と記入してあり、豪州は独立国にはなったものの、立派な大英帝国(Commonwealth)の一員でした。
Russelllは当時、豪州で最大の都であったメルボルンに寄贈したのです。

クック船長協会
豪州海洋博物館
ニュージーランドの発見(クック船長)
NSW州立図書館

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