2018年5月 5日(木)
No.23 セントキルダ
日豪プレス6月号
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
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日豪プレス
セントキルダは観光地として名高いが、アイルランド、ユダヤ人、東ヨーロッパからの難民が避難してきた約束の地であった。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 絞り7.1 1/200秒 ISO感度 100 露出補正 オート PG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2010年12月16日
1841年2月、英国の貴族アクランド卿が所有する帆船レディ・セントキルダ号がメルボルンに到着した。2年ほど沖に停泊していた為に、物見高いメルボルンっ子の間で、すっかり有名になり、停泊地がセントキルダと名付けられ、中心の通りがアクランド通りと呼ばれた。
1853年に木造のセントキルダ桟橋が設置されると、ゴールドラッシュで多くの移民がセントキルダにやってくるようになった。
そのころ(1845?1852)ヨーロッパではジャガイモ飢饉と呼ばれた大災害が発生していた。特にアイルランドでは惨状を呈していた。当時アイルランド全土は英国領であったが、領主であった英国貴族たちは、大飢饉でアイルランドの25%が餓死する惨状の中で、アイルランドの自分の領地から穀物を英国に向けて出荷し、英国政府もアイルランド難民を助けることはなかった。そのためアイルランドの人口は半分になった。現在も続くアイルランドの紛争は、この時に端を発していると云ってよい。
ゴールドラッシュに沸くメルボルンには多くのアイルランド難民がセントキルダ桟橋に到着した。
1853年から1856年にかけて東ヨーロッパのバルカン半島でクリミア戦争が勃発した。英仏、オスマントルコ対ロシアの戦争で、多くの難民が発生し、メルボルンにも多数の移民がやってきた。特にセントキルダ桟橋から入国する人々が多く、セントキルダにはバラクラーバ駅、クリミア戦争で活躍した看護婦のナイチンゲール通り、インカーマン通りなどクリミア半島の名前がついた場所や通りがたくさん残っている。
セントキルダには多くのユダヤ人も住んでおり、独特の服装と風習で知られているが、多くはロシアやウクライナなどから逃れてきたユダヤ人難民である。
多くの難民にとって食料が豊富で差別が少ない自由の地、メルボルンは「約束の地」であった。豪州第二の鉄道路線メルボルンーセントキルダ線が
1857年に開通すると、多くの人々が住み始めた。近郊の海岸ということもあり、観光地と化して、遊技施設ルナ・パークやパレス劇場、カタニ公園、シーバス(海水プール)、セントキルダ桟橋パビリオン、エスプラネードホテル(ライブ音楽)フィッツロイ通り、アクランド通り、エスプラネード通りの日曜市などの名所が並ぶメルボルンの最大の郊外観光地である。AFLのセントキルダ・セインツの本拠地としても知られる。メルボルン市内からトラムで30分ほどで行くことができる。
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