2019年6月2日(日)
888運動とレーバーデイ
日豪プレス2019年7月号
メルボルン Melbourne
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メルボルン大学発祥地である法学部校舎を建設していた石工たちは、1856年に労働組合を組織して抗議行動を行った。4月21日、石工たちは建築関係労働組合のメンバーと共にビクトリア植民地政府議事堂まで888と書かれたバナーを持って行進した。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/640 F6.3 ISO感度 100 オート 露出補正 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2018年1月17日18:37 板屋雅博撮影
ラッセル通りとビクトリア通りの交差点に立つ888記念碑 向こう側にトレードホール
これは英国の社会活動家ロバート・オーエンの8時間運動を意識したものであった。18世紀に英国で始まった産業革命によって女性、子供を含む多くの労働者が1日14時間から16時間、週6日間、工場で働かされるようになった。オーエンは、1810年に8時間運動を唱え始めた。8時間を労働に、8時間を睡眠・休息に、8時間を自分の為にという運動であった。
888の文字がはっきり読める
メルボルンの建築労働者を率いたジェームズ・ステファンズは、世界で初めての労働者階級の政治運動と云われる英国のチャーチスト運動で頭角を現したが、当局の追及を逃れて、メルボルンに1853年に移民した。労働者たちは、8時間運動について多くの宴席やミーティングを当時新築のベルビデアホテルを本部として行なった。政府が強力な英国では失敗に終わったが、成立して間もないひ弱なビクトリア植民地政府は、筋金入りの組合主義者に率いられた労働者たちの運動にはひとたまりもなかった。政府は公共建築に雇われた労働者には8時間労働を約束した。10時間分の賃金と週12時間の労働時間短縮は、労働者の生活水準の劇的な向上をもたらした。1856年5月12日を祝日として多くの労働組合と労働者が参加してパレードを実施した。建築業界で8時間労働が確立し、8時間労働制は広くビクトリアで普及した。
労働運動発祥の地 メルボルン大学法学部
ドイツの思想家ローザ・ルクセンブルクは、メルボルンの4月21日の行進を世界のメイデイ(May Day)の起源であり、米国やヨーロッパの888運動の刺激となったと記している。米国の労働者が8時間労働運動を始めたのは1880年年代であり、欧州では1910年代である。メルボルンでの労働者の勝利は時代の先駆けであった。シドニーでもメルボルンに刺激されて労働運動が始まり、8時間労働を一部では勝ち取ったが。給料の低下を伴ったものであった。メルボルンでの勝利が重要なのは、政府が承認したこと、賃金低下が無かったこと、影響が他の業界に広がったことである。
労働組合発祥の地 ベルビデアホテル
オーストラリア労働組合運動は、8時間労働キャンペーンを通じて拡大し、888のスローガンは、全労働組合のビルに掲げられた。
8時間運動の勝利により建設されたビクトリア・トレードホールは、世界最古の労働組合会館である。ビクトリア州で最初の祝日は、8時間闘争と結果を記念する日であり、後の労働者の日(レーバーデイ)となり、8時間運動パレードは、1856年から1951年まで継続され、現在のムーンバ・パレードとなった。
世界最古の労働組合会館トレードホール
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