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8時間運動記念碑 

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2009年2月11日(水)
8時間運動記念碑 
8 Hours Movement Monument
ラッセル通り Russell Street
メルボルン Melbourne
この場所の地図

今朝も冬を思わせる冷え込みで13度以下の気温でした。昼間も19度とかなりの寒い一日でした。フリース、セーター、ジャンパー、コートと晩秋を思わせる気候でした。

昨年の今日 2008年2月11日(春節 中国正月)

Canon EOS 40D シャッター速度 1/125 秒 絞り F11 太陽光 評価測光 ISO感度 100  画質圧縮率 RAW
レンズ:EF24-70mm f/2.8L USM

為替:A$=59.01円

 『888』の文字がくっきりと浮かび上がっているタワーの頂上部分下。
これはロバートオーエンが主張した8時間労働、8時間の余暇、8時間の休息を意味しています。

このタワーは、8時間労働運動記念碑(8 Hours Movement Monument)と云います。
メルボルン監獄(Melbourne Gaol)とトレードホールの中間点にあります。

8時間労働は、現在では当たり前になっていますが、メルボルンが成立した1850年ころは、1日16時間以上の労働が普通でした。また法律は、経営者に非常に有利に出来ていて、経営者の同意を得ずに1時間、職場を離れると懲役刑が待っていました。
1823年に英国で制定されたMaster and Servant Act(主人と下僕法)によります。

ムーンバの昼(参照)

蒸気機関、紡績業、製鉄業などを中心として1700年代に英国で始まった産業革命は、資本家に莫大な利益をもたらしました。
近代的な工場は、多くの労働者を必要としたために、ロンドンなどの大都市には、疲弊した農業からたくさんの低賃金労働者が集まりました。当時の英国(及び世界)には、労働者の健康や権利を守るという法律や、考え方がそもそも存在しませんでした。
一般の工場では、劣悪な環境の中で、1日に16時間程度の労働をさせるのは、ごく普通のことでした。
1810年には有名な英国のロバートオーエン(Robert Owen)が1日10時間労働を要求して立ち上がっています。
ロバートオーエンは、1817年に、人は、8時間労働、8時間の余暇、8時間の休息を取る権利があると社会主義主張で述べています。

正面は、トレードホール(労働運動記念館 ビクトリア労働党の発祥地)

英国では、1847年に、女性と子供にだけ1日10時間労働が認められました。
フランスでは、1848年のナポレオン三世の二月革命のあと、1日12時間が認められました。
新大陸オーストラリアでは、経営者及び労働者ともに英国などからの移民からスタートしており、それほど両者の間にはもともと大きな差はありませんでした。
Master and Servant Act(主人と下僕法)なども英国から持ち込んだものの、徹底するには、無理がありました。

トレードホール

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1856年4月21日、メルボルン大学の石工たちを中心とした建設労働者が労働時間の短縮を求めてビクトリア植民地議事堂までパレードをしました。植民地政府は、あっさりと8時間労働を認めました。1858年から8時間労働は、メルボルンで正式に認められました。1879年からは、8時間労働の日は、Labour Dayとして祝日となっています。

古いしきたりが存在しない新大陸だから認められた法律と云えます。

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