メルボルン・ケーブルトラムシステムは1885年から1942年までメルボルンで実施されていた公共交通システムである。当初は電気が無い時代であり石炭火力で蒸気機関を動かしてケーブルを駆動するシステムであったことは大きく注目される。
鉄道は総距離75km、複線(ダブルトラック)、総車両数1200車両と運搬車、メルボルンを中心として周囲のサバーブへ放射状に伸びる15ルートを持っていた。当時、シカゴとサンフランシスコと肩を並べる世界最大級のケーブルシステムであった。英国で教育を受けたNZ人のジョージダンカン(George
Smith Duncan)がトラム鉄道のエンジニアに採用された。メルボルン・ケーブルトラム鉄道は市役所、各区自治体などで構成されたトラム鉄道信託によって建設された。
メルボルントラム乗合鉄道会社によって1885年から1916年まで運営された。その後、運営権がビクトリア州政府に移管され、更に1919年11月1日にメルボルントラム鉄道委員会(MMTB:Melbourne
and Metropolitan Tramways Board)に移管された。ノースケットトラム鉄道は民間会社によって建設、運営されていたが、1920年にMMTBに移管された。電気式トラム鉄道が1885年にドンカスターで導入され、11年間運営されたが、電気式はそれほど広まらなかった。
1906年にビクトリアン鉄道が電気式ストリート鉄道がセントキルダからブライトンまで建設して運営を開始した。ノースメルボルン電気トラムアンド電灯会社が送電線を発電所からエッセンドンまで敷設した。1924年あらケーブルトラム鉄道は徐々に電気式トラムに変換されていった。ケーブルトラムは1940年10月26日をもって運営を停止した。