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バットマンとフォークナー メルボルンデー08

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2008年8月31日(日)
バットマンとフォークナー
メルボルンデー Melbourne Day その2
エンタープライズ公園 Enterprize Park
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

今日もほとんど曇りのメルボルンでした。夕方からは少し晴れてきて、夕日の頃には快晴となりました。

昨年の今日2007年8月31日(バンドゥーラの満開の桜

メルボルン市長のジョンソー。
香港からの移民です。2007年の世界のベスト市長に選ばれています。

写真は、8月30日撮影

 ロンセストン市長

1835年にビクトリア地区を最初に開拓したのは、ジョンフォークナー(John Pascoe Fawkner)とジョンバットマン(John Batman)のふたりの企業家グループです。

ジョンバットマンとジョンフォークナー 

バットマンは、シドニー生まれ、フォークナーはロンドン生まれです。1834年には、二人ともタスマニアのロンセストンの町に住んでいました。ビクトリアの切り取りをそれそれで企画しています。ふたりが出会ったというパブもロンセストンの町に残っています。1935年5月に先にビクトリア州に到着したのはバットマンです。6月にはメルボルンとジーロンの中間の土地で、地元のアボリジニ相手に、ビクトリア州全土をバットマンの土地とするという身勝手な契約(バットマンの契約)を結んでいます。
バットマン公園参照

  ビクトリアの土地を自分のものと勝手に決めた後、物資の補給もあっていったんタスマニアへ戻っています。

フォークナーの帆船『エンタープライズ号』が8月30日にヤラ川のこの場所に到着したのは、バットマンがいない時期です。
こうしてフォークナー一行は、メルボルンの最初の植民者となりました。
最初に町の建設が始まったのもこの場所からです。当時、エリザベス通りは、メルボルンの谷底にあたり川が流れていました。
フリンダース通りを東西の通り、エリザベス通り(川)を南北の基軸に据えました。
最初の1−2年は、エリザベス通りから西側が開発の中心でした。
バットマンとフォークナーの成功を知ってタスマニアから次々に移民者たちがやってきました。

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  式典の間は、することがない子供たち。
フォークナーは、フリンダースレーンとウィリアム通りの角にメルボルン最初の宿屋を開業しました。またコリンズ通りにメルボルン最初の新聞『メルボルンアドバタイザー』の発行を始めています。
ウィリアムとコリンズ 

1835年の一時期、ジョンバットマンは、メルボルンをバットマニア(Batmaia)という名前にしていました。
バットマンの最初の家は、フリンダース通りとスワンストン通りの交差点にありました。
現在のホテルヤング&ジャクソンの場所です。
ホテルヤング&ジャクソン
バットマンは、サザンクロス駅からドックランズ一帯の広大な土地を所有していました。駅の高台の一帯は、バットマンヒル、ドックランドの湿地帯は、バットマン湿地と呼ばれていました。

 1835年にメルボルンに来てから、バットマンの命運は傾き始めます。奥さんと疎遠になり、一人息子は、クイーン橋のたもとで溺れ死にます。1839年に38歳で亡くなった際には、アボリジニに看取られています。ビクトリア市場の隣にメルボルンの最初の公設墓地がありました。現在は、駐車場となっています。その後、フォークナー墓地に移されて、そこで眠っています。
バットマンには、娘が7名おり、直系の子孫がオーストラリアで活躍されています。

Daniel Batman

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