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   ビーチハウス 日豪プレス2020年12月号 No47 2020年10月11日

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eMelbourne

2020年10月18日(日)
ビーチハウス
ブライトンビーチ Brighton Beach
日豪プレス2020年2月号 No43
メルボルン Melbourne 
この場所の地図 Google Map 

メルボルンの人気スポットのひとつに海岸地帯にひろがるビーチハウスがある。現地では、bathing boxesと云う。ブライトンビーチが有名だが、ハンプトン、サンドリンガム、ブラックロック、メントーン、モーディアロックなど南東部の海岸には多くのビーチハウスがある。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/320 F9.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2016年1月16日15:47 板屋雅博撮影


 ビーチハウスは、英国の海岸で使用された移動更衣室(海水浴専用の小型荷馬車:bathing machine )に起源を持つ。第45回で説明した海中を囲ったプールと起源を同じく、女性の海水浴を促進したことに始まる。英国では1700年代から健康促進のため、海水浴が流行した。当時は、まだ水着が無く、男性は全裸で泳いだため、女性が海水浴を楽しむには特別な設備が必要であった。ビクトリア女王時代の中産階級に広がったビクトリア道徳との関連も指摘されている。産業革命が英国で進行する中、富裕な中産階級が増加し繁栄のビクトリア時代が始まり、旧来とは違った新しい概念をビクトリア道徳と云う。


 移動更衣室(海水浴専用の小型荷馬車:bathing machine )は、馬車の後部に女性が乗れる木製の小部屋を備えていた。木枠にキャンバス地を張ったものなど、いろんなタイプがあったが、小部屋の最後部には外部に出るドアとしてカーテンが張ってあった。海には馬車の最後部から入って行って、馬は馬車から離して陸上に係留された。
女性は自作の簡易水着や普段着でカーテンから海水に入って海水浴を楽しんだ。多いときには、英国ブライトンビーチには数千台の移動更衣室がビーチを埋め尽くした。英国ビクトリア女王も専用の移動更衣室を持っていた。

移動更衣室とは言っても馬車に違いはなく、不便であったために、固定式の一種の別荘であるビーチハウスが19世紀半ばから流行を始めた。


1850年頃から移動更衣室の代わりに登場したのがビーチハウスであった。メルボルンの最初のビーチハウスは、1862年にMark Hallowによって建築されたと記録されている。これは行政当局や土地の所有者の許可を得ないで建てられている。記録されてはいないが、既にいくつかのビーチハウスが存在していた可能性もある。このビーチハウスは、商用ではなく、所有者や家族、友人が海辺で楽しむために作られている。
1883年には、ムーラビン市(The Shire of Moorabbin)は、数名の住民に対してモーディアロック(Mordialloc)の海岸にビーチハウスの建築を許可している。

ムーラビン市の記録によると1900年になって、ハンプトン、サンドリンガム、ブラックロック、メントーン(Mentone)、モーディアロックの海岸にビーチハウスの建築許可申請が多数出されている。全ての申請に許可が出された訳では無い。土地の住人ではない申請者、大きすぎる物件
現在、ブライトンビーチには82軒のビーチハウスがある。所有、管理、貸出は、ベイサイド市。電力、水の供給は無い。モーニントン半島も含めると全部で1860軒のビーチハウス(Bathing Boxes)がある。

英国、豪州のみならず、フランス、南ア、イタリアなども流行した。

 1930年代に入ると、増え続ける建築申請やビーチハウスの混雑のため、行政当局によって様々な制限が設けられるようになった。建築材料や、サイズ、建築方法、強度などだ。このためどのビーチハウスもほとんど同じようなサイズとなっている。唯一、制限がなかったのが、色彩だ。自分のビーチハウスの個性を出そうとして、オーナーは競って独自のカラーリングを施した。 

1960年代に入り、多くのビーチハウスは劣化や老朽化が目立ってきた。当局は、ビーチハウスの解体と、その後の建築許可の取り消しを決定。
しかし住人や新聞などが反対して結局解体は取りやめとなった。
移動更衣室やビーチハウスは、富裕層が所有するものであった。海水浴は新しい行楽であり、海水浴に飛びついたのは、これまでの富裕層である貴族階級ではなく、産業革命によって伸し上がってきたきた新興中産階級であった。一方でビクトリアの美徳と呼ばれる中世風の道徳も残っていた。そのふたつが相まって 移動更衣室やビーチハウスが生まれた。

 ビクトリア時代の海水浴は、もちろん現在とはずいぶん違っていた。現在は、男女は一緒にビーチに集い、各自好みの出来るだけ表面積が小さな水着を着用する。ビクトリア時代は、社会的に厳しい規範(stricter societal conditions)があり、公共の場には、適当な制限があった。海水浴は、男女別の時間帯たり、違うビーチが設けられた。公共の場で水着を着用した男性と女性がお互いを見ることはエチケットとしてなかったという点は重要な事実であった。このような公共エチケットは特に女性に対して強要された。そこでバスマシンが登場した。



 eMelbourne

メルボルンの夏の期間、海水浴はプールやビーチでは昼夜、非常に人気があり、楽しまれている。
ヘレン・ガーナー(Helen Garner)の著書モンキーギャップ(Monkey grip:1977年)には、Aqua Profondaの看板を挙げたフィッツロイプール(Fitzroy pool)の様子が描かれている。
1840年代や50年代は、ヤラ川河畔が自然の水浴の場所であった。起業家は、川の上に水上浴場(floating baths )を設け、ある程度、儲かった。1844年に行政当局(city by-laws)は市内での昼間の水浴を禁止したが、市民は無視した(commonly flouted)。

1840年代後半に、N.L. Kentishは、ビクトリア水泳場(Victoria Baths)をヤラ川の滝(Yarra Falls)の西側に設置すると発表した。貴重な水泳芸術を推進する為に、賞金を出すと広告したが、実現しなかった。現実と道徳浄化団体(association between physical and moral purity)は、ロンドンやNYの改革者(reformers )によって提唱された。浴場と洗濯場運動(Bath and Wash-House movements)により、1840年代終わりまでに貧困労働者クラス(labouring poo)の為に公共浴場が開設された。メルボルンでは浴場と洗濯場会社(Bath and Wash-House Co.)が1853年に設立された。Royal Melbourne Bathsは、アーガス紙によると快適、清潔、見栄えを促進したと記述されている。

1856年にThomas E. Rawlinsonは、公共浴場を労働者階級の習慣と必要性として推薦した。ホテルでの堕落した悪影響への対案とした。
コリンウッドの Dr Thomas Embling, MLA は、1858年のヤン・イーン用水供給(Yan Yean water supply)開始は、公共浴場選定委員会の隠れた要因とした。1860年には、メルボルン市行政は、最初のメルボルンシティ浴場を開設した。
ジョブソンのハンドブックによると、1866年頃のメルボルンの浴場使用者は水泳により心と体の健康を促進するとした。バーク通りに出来たJ.S. Hosieのトルコ式浴場(J.S. Hosie's Turkish Bathing Palace)の医療性、清潔さと豪華さを讃えている。

 現在のポートメルボルンにあったリアルデットのピアホテル(Liardet's Pier Hotel)は1842年から44年には海水浴場として広告を行った。
T.M. Crosbie がブライトンホテル(Brighton Hotel)で、海水浴マシンを発表した。1853年にウィリアム・ケニー船長(Captain William Kenney)がマリー・フォード(Mary Ford)のセントキルダに持っていた海水浴施設(sea-bathing venture)を買い取った。鉄道がセントキルダまで開通して海水浴は身近なレジャーとなった。1868年にはサンドリッジ海岸に海水浴施設が開設され、ケニー船長は、ブライトンビーチ海水浴場(Brighton Beach Baths)を1863年に開設した。ミドルブライトン海水浴場(Middle Brighton Baths)は、1881年に作られた。その後、世紀湾蒸気船(century bay steamers)がモーニントン半島の海水浴場へ日帰り旅行を可能にした。



 自治体の海水浴施設(Corporation baths)も1881年にミドルブライトンに開設されたが、1933年の嵐により打撃を受けて2年後に解体された。海を囲い込んだシーバスは1986年に再建されたが、豪州で現存する数少ない例である。

1800年代終わりまでは、民間のビーチハウス(Private bathrooms)は比較的珍しかったが、1930年代には、現在の半分くらいのビーチハウスが各サバーブで作られた。
疫病に対する恐れもあり( fears of disease)、公共水泳プールの必要性が言われたが、公共プールでの適当な濾過設備(filtration)や殺菌(disinfecting)設備が欠如しており、衛生的(hygienic)ではなかった。
サバーブの公共プールは、下記にて開設された。
リッチモンド Richmond (1897)
フィッツロイ Fitzroy (1908),
ノースメルボルン North Melbourne (1910)
ブランズウィック Brunswick (1914).

水浴は、水で満たされた石切り場の穴(flooded quarry holes,)、各地の川、水路(creek systems)で楽しまれ、フェアフィールド公園(Fairfield Park,)、アルピントン公園(Alphington Park)、ディープロック( Deep Rock)などのヤラ川で水泳クラブ主催の水泳競技会が行われた。

1920年頃までは、郊外のプールで男性が裸で泳ぐのは普通に見られた。
当時、公共水泳場はファーストクラスとセカンドクラスの施設が分かれていた。
行政の規則で(municipal regulations)湾岸のビーチを性別で分けていた。
1910年頃までは、海水浴は昼間はあまり奨励されなかった。
セントキルダ海岸で、男女一緒に海水浴を楽しんだのは1917年であった。
メルボルン市民プールで男女一緒にプールで泳いだのは1947年である。




公共プールの役目( function of public baths)が衛生からレクレーションに変わり、夏場のカーニバル、ライフセービングの講習会(demonstrations )、水泳競技会などに使われた。行政委員会によって地域のプールが閉鎖されようとしたが、住民の反対運動がおこった。
1994年のフィッツロイプールが有名である。
1900年代後半には、多くの地域のプールはレジャーやコミュニティセンターとなった。

 

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