シティ案内

タスマニア号とサンドリッジトップ

サンドリッジビーチ Sandridge Beach

メルボルン百景トップ



2007年1月29日(月) 19:00(今日の一枚へ戻る
サンドリッジビーチ
Sandridge Beach
ポートメルボルン Port Melbourne
Melway 56−H3

今日も昨日と同じように午前中は曇り、午後からは雲が多い晴れ、夕方からは快晴という天気でした。夕方からの散歩にはとても気持ちの良い気候となりました。
最高24度、最低16と快適な気温です。
このところ雨がほとんど降らないために、メルボルンでは水の規制がレベル3になっています。

釣りをする移民の人たち。

昨日までの画像

Sandridgeの海岸です。ほとんど知られてませんが1kmほどもあり、いつも波静かな良いビーチです。メルボルンの海岸の一番、西寄りにあります。ここから西側には大型船用の着岸ドックがありますが、産業用ですので、一般の人は立ち入りできません。ドックの西側は、ヤラ川の河口があります。ヤラ川は、総長242kmとビクトリア州では一番、大きな川です。ヤラ川の恩恵を受ける土地は、4000平方Kmに達します。ヤラ川を西へ越えると、ウイリアムズタウン(Williams Town)のグリーンウィッチリザーブ(Greenwich Reserve)です。この防波堤から直線で2kmもありません。しかし大型のコンテナ船がヤラ川を遡ってドックランドへ入る為に、巨大なウェストゲートブリッジ(West Gate Bridge)がかかっています。従ってこのビーチの前を巨大なコンテナ船が通っていきます。

このような防波堤(Breakwater)がサンドリッジビーチに3本あります。

この小さなビーチはメルボルンの歴史にとって重要な場所です。1851年にゴールドラッシュが始まると、ヨーロッパ中から人々が押し寄せてきました。1851年に3万人であった人口が1854年に30万人に膨れ上がりました。当時の帆船は、100人ほどしか乗れませんので、年間に1000隻もの船がやってきました。その場所がメルボルンに一番近いこのサンドリッジの海岸なのです。当時は、桟橋がなかったので、ボートに全ての荷物、人員を積み替えてこのビーチに上陸したのです。1日あたり3隻も到着したので、荷役を行うボート、人員などなにもかもが足りませんでした。荷役を待つ船がこの海、ホブソンズベイ(Hobson's Bay)に何十隻も滞船したのです。ヨーロッパから3ヶ月もかかって、バス海峡の荒波や難破船海岸を越えて、やっと到着したのにも関わらず、陸へ上がれないという事態でした。この穏やかな海岸にそんな時代があったのです。

 左側は、プリンセス(Prince's)桟橋
1851年にNSW州から分離独立していたメルボルン植民地政府は、直ぐに大型桟橋の建設に取り掛かりました。それがステーションピア(Station Pier)です。
ステーションピアは、豪州最古にして最大の旅客貨物桟橋です。その後、メルボルンは、豪州最大の都市として発展を続け、ステーションピアの重要性がますます高まっていきました。そのためステーションピアを補完するために1920年に作られたのが、プリンセスピアです。1970年以降、移民はほとんど航空機の利用に移りました。ステーションピアは、タスマニア号や豪華客船の桟橋として今も利用されていますが、プリンセスピアは、現在は利用されていません。
沖のボートは、タスマニア号の誘導ボートです。

このページのトップへ
当ページに記されている内容の信頼性に関しまして、筆者は責任をもっておりません。ご注意ください。
当ページ及び付属のページに記載されている内容や画像を無断で複製・転載・使用することを禁じます。
当サイトは、ホームページ、ブログなどにリンクフリーです。リンクされたら下記までご連絡ください。
Copyrights (C) 2005-2006 Melbourne Hyakkei All Rights Reserved.

inserted by FC2 system