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2023年3月12日(水)  Responsive版
エッセンドン鉄道駅 
Essendon railway station
エッセンドン Essendon
メルボルン Melbourne
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エッセンドン鉄道駅は、クレイギーバーン線の主要駅であり、1860年10月にオープンした。開業当時からユニークな駅であったが、1900年代に当時の最新技術によって近代化された。


撮影データ iPhone XR
絞りF1.8 1/2257秒 ISO感度 25 
2023年1月20日14:51 板屋雅博 撮影



メルボルン・スペンサー通り駅ーエッセンドン鉄道線は、1850年代、60年代にメルボルンの近郊私鉄3路線のひとつとして建設された。1860年10月にオープンした。
メルボルンーエッセンドン鉄道線は、1台の不安定な蒸気機関車と2台の客車が間欠的(intermittent)に5駅の間を運行したが、わずか4年後の1864年7月にメルボルンーエッセンドン鉄道会社(Essendon railway Co., Ltd)は、全資金を使い果たして、鉄道線は閉鎖された。
1868年にビクトリア植民地政府は、鉄道線を買い取り、修理を開始した。1871年に恒久的な旅客運行が始まった。エッセンドン鉄道駅は、メルボルンーエッセンドン鉄道線の終点駅として12年間、運営された。

  まったく新しいエッセンドン駅は、現在の中央プラットフォームの場所に1878年に建設された。地下道や歩道、中央部分の1878年の片面型プラットフォームなどの追加設備は1886年に完成した。1909年に現在の中央プラットフォームや駅舎、照明室、店舗複合施設が建設された。建設業者は、 A. Challingsworthであった。1922年に赤レンガの小包事務所が下り方面(down-side)のプラットフォームに建設された。建物は、フェデレーション期フリースクラシカル様式で建設された。駅舎は、地下道経由でアクセス出来る中央プラットフォーム、 切符売り場と事務所、待機所、トイレなどであった。


.中央プラットフォームは、短い鋳物製の柱で支持された木製の屋根(timber canop)とで覆われている。
柱にはコンクリートで満たされいる。
ラッセル通り側のプラットフォームは、かつてのランプルーム(灯油置き場:lamp room)とミルク室(授乳室:milk shed)の部屋と1922年に出来た小包処理室があった。
駅舎は、赤レンガ製で荒い鋳物製化粧がドアの上部と窓の高さ部分にあった。
プラットフォームへは装飾用パラペット、片持ち式ベランダ(cantilever verandahs)が施されており、ブルーストーン製角石(quoin)が開口部に使われている。

片持ち式ベランダには波板鉄板(corrugated iron sheet)がはめ込まれており、波型の鋳物製飾りが設置されていた。上部の窓枠にカラーガラスを嵌めた(multi pane coloured glass)複数の窓を持ち、セメントで固定し、開口部には要石(keystone)のモチーフ(motif:ある建築や装飾作品で、何度も使われる形やデザイン)が使われている。

エッセンドン鉄道駅は、細部にまで装飾にこだわった芸術的価値が高いフェデレーション期フリースタイルの建物である。




 エッセンドン鉄道駅は、ユニークな駅舎であり、有蓋商品倉庫(van goods shed)、危険物室(lamp room)、ミルク店舗(milk shed)、物販店などが複合的に配置されている。1909年から22年にかけてビクトリア鉄道局(Victorian Railways Department)によって建設された先駆的な(precursor)駅舎群の最も典型的な例である。中央プラットフォームへの傾斜路(ramp)を支持するコンクリートを充填した鋳物製柱は、当時の建設では革新的な方法(innovative method)であった。エッセンドン鉄道駅は、床やランプを構成するリンテルやスラブに使用されている強化コンクリートを使用する初期の例である。

 リンテル(lintel):まぐさ石(まぐさいし)古代の建築で2つの支柱の上に水平に渡されたブロックを指す。 「まぐさ(目草、?)」も「リンテル」も窓や出入り口などの上に水平に渡した構造を指し、上部の重量を支える役目を持つ。エッセンドン鉄道駅は、1900年頃にメルボルンのサバーブが強化された時代を良く物語っている。


 1909年の駅の近代化は、エッセンドン地区のブーム期であった。鉄道が蒸気機関車がビクトリアの輸送の中心的な時代であった。ランプルームは、旅客は職員に危険性がある灯油ランプに使用される可燃性の灯油や爆発物などを保管する倉庫のことである。

 1871年1月7日ののウィークリータイムズ紙(Weekly Times)には古い木製の駅舎に変わって石造りの本格的な(substantial)恒久的なプラットフォームが建設され、全ての駅舎は適度に補修されたとの記事がある。
エッセンドン鉄道線が再度、オープンした後、北東鉄道(North-Eastern RAilway)は、1873年にウォドンガ(Wodonga)まで延長された。1886年のエッセンドン鉄道駅の新駅舎案では、中央プラットフォームのそれぞれに2線、合計4路線が計画された。1908年、ビクトリアン鉄道局は、新しい駅舎と鉄道線の建設を提案した。1909年にプラットフォームの西側に2本の鉄道トラックと東側に第三トラックの設置が含まれた。
エッセンドン鉄道線は、豪州で最初の電化鉄道線となった。1919年5月にサンドリングハムを出発した最初の旅客電車がエッセンドン駅に到着した。




電車は、テイト(Tait)カーと呼ばれた。鉄道局長ジェームス・テイト(railway ommissioner Sir James Thomas Taitから)に由来する。また独特の塗装色から赤いガタガタ(red rattlers)とも呼ばれた。1925年から



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