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2018年11月17日(日)
タウンピア桟橋
Port Melbourne Town Pier
ポートメルボルン・ヨットクラブ
The Port Melbourne Yacht Club
メルボルン Melbourne 
この場所の地図 Google Map

この場所には、タウンピア桟橋があった。タウンピアは、ポートフィリップ地区(ビクトリア)への移民が最初に到着する場所であった。タウンピアの最初の部分は、サンドリッジ海岸に1849年に旅客と荷物の荷揚げ地として建設された。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り6.3 1/800秒 ISO感度100 露出補正 オート JPG レンズ EF 70-200mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2018年1月18日 10:03


 1850年代のゴールドラッシュの後で、メルボルン港桟橋設備への増強要望が強く、何度も拡張された。1800年代後半からはサウスメルボルンガス工場への石炭の荷揚げ港として主に使用された。1920年代から1950年代にかけて、桟橋の老朽化して危険になった場所は、解体され1958年に完全に撤去された。ポートメルボルン・ヨットクラブは、1960年代にタウンピア桟橋の緊急用ボート置き場があった陸上部分に新しいヨット小屋を建設した。クラブハウスは1996年に火事で焼失した。同じ場所に新しいクラブハウスが建設された。
  
 メルボルンの最初の港はヤラ川を遡ったザフォールの前に作られた。大型船はヤラ川を遡れないのでウィリアムズタウンのジェリブランド岬(Point Gellibrand)の近くで錨を下ろし、小型船に荷物を積み替えて荷物と旅客はヤラ川を上った。ヤラ川の河口には砂が積もった障害物があり、喫水8フィート以上の船はヤラ川は上れなかった。多くの旅客は本船からウィリアムズタウンの海岸へ積み下ろされ、ウィリアムズタウンからポートメルボルン(当時は、ノースビーチNorth Beachと呼ばれていた。)へヤラ川を越えて、そこからメルボルンの定着地へと移動した。荷物は、小型船でヤラ川を上ってメルボルン中心地で荷揚げされたが、輸入品を扱うには非常に高価で手間がかかる方法であった。1840年代には、輸入商人や輸入業者は政府に対して港湾設備の改善を要求した。

 3つの主要な案が検討された。ヤラ川を真っ直ぐに改善し、浚渫して深くする案、ビーチからメルボルンまで運河を掘る案、ポートメルボルンからメルボルンまで鉄道を建設する案であった。1849年にポートフィリップ地区橋梁監督官デビッド・レノックス(David Lennox)は、1839年に建設されたウィリアムズタウンの桟橋(jetty)を拡張こととホブソンベイのノースビーチ(サンドリッジ海岸)へのパイルの供給と建材供給をする入札を実施した。(Port Phillip Government Gazette, 1849, p.187).


翌年には、階段の追加部分と桟橋の手すりの入札が実施された。 (Port Phillip Government Gazette, 1850, p.986).1851年にビクトリアでゴールドラッシュが始まり、ホブソンズベイに外来線が急増した。 (C. Pasley, 'Report on the Various Plans for the Improvement of the Port of Melbourne, VPP 1854-1855, Vol 3 p,783).政府も民間企業も海岸地区に設備を次々に作った。植民地政府は、サンドリッジ海岸の桟橋を延長した。The Colonial Government extended the jetty at Sandridge (as the North Beach was by then known). 1854年に民間企業のメルボルン・ホブソンズベイ鉄道会社がタウンピアのすぐ近くにレイルウェイピア桟橋を建設してフリンダース通り駅までの列車を走らせた。政府はウィリアムズタウン桟橋にも宿泊設備を増強した。

 もうひとつの民間鉄道会社メルボルン・マウント・アレキサンダー・マレー鉄道会社(Melbourne, Mount Alexander and Murray River Railway Company)も鉄道桟橋をジェリブランド岬(Point Gellibrand)に作り、後にジェリブランド桟橋と呼ばれた。海岸港の改善にも関わらず、取り扱い量が拡大し、その大半は、メルボルン中央部ヤラ川河畔の倉庫に輸送された為に国内輸送が煩雑かつ高価であった。1877年にメルボルン港湾局( Harbor Trust)が作られ、サージョン・コード(Sir John Coode )がメルボルン港改善計画を策定した。

Gellibrand Pier

 1884年から1892年にかけてクード運河とビクトリアドックが作られ、大型船がドックランズまで到達できるようになり、タウンピアでの取扱量は減少した。鉄道桟橋とは違いタウンピア桟橋は、荷揚げ後に商品移動の為に荷馬車が必要であった。1880年代から1890年代にかけて港湾局は、海路を深さ28フィート、幅600フィートを浚渫した。ポートメルボルンでの桟橋設備は、1912年から1915年にかけてのプリンセス桟橋の建設と鉄道桟橋西地区、ステーションピアの建設によって増強された。
ふたつの桟橋は、タウンピアと違いビクトリア鉄道網に連結されていて、大型船による輸出入や旅客の輸送にも関わっていた。


  客船デビッド・クラーク号による英国政策的移民(assisted immigrants)の第一船が1839年にサンドリッジ海岸に到着した。1839年に移民したウィブラヒム・リアルデットは、本船からノースビーチへのフェリー輸送を開始し、ブライトン桟橋ホテル(Brighton Pier Hotel)を経営した。

David Clark(wiki) assisted immigrants

The Pier Hotel

Port Melbourne Town Pier

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