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2023年4月27日(土)  responsive版
コールのブックアーケード 
Cole's Book Arcade メルボルン
リトルコリンズ通り Little Collins Street
メルボルン Melbourne
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メルボルンには、かつて世界最大の書店があった。
書店の広大な書庫には100万冊の本を所蔵していた。コールの書店ブックショップにようこそ。コール書店の名声は世界にとどろき、英国の作家キプリング(著作:ジャングルブック)や、英国の作家マーク・トウェイン(トム・ソーヤーの冒険)なども訪問している。

撮影データ iPhone XR
絞りF2.4 1/123秒 ISO感度 32
2024年1月16日17:19 板屋雅博 撮影



  メルボルンの歴史ファン(buffs)はコールのブックアーケードを知っているでしょう。1883年から1929年にかけて現在のバーク通りモール(Bourke Street Mall)の場所にあった素晴らしい3階建ての書店である。同じ名前の小型店舗が1973年から1937年まで豪州各地に点在した。特徴的な虹色のサイン看板が目印で、コールブックアーケードはメルボルン最大のアトラクションのひとつであった。お菓子店(lolly shop)、おもちゃ店、サルの教育用展示、しゃべるオウム(talking parrots)が飛び交うシダ植物園、写真撮影スタジオ、小型遊園地( funhouse)、喫茶店、音楽生演奏、機械式ニワトリ(現在はメルボルン博物館に展示)などユニークなアトラクション満載で世界初の都市型テーマパークと言ってよい場所であった。書店もユニークで、好きなだけ本が読めて、店員も買ってくださいと決して云わない現在でも通用する書店経営であった。
“Read For As Long As You Like ? No One Asked To Buy。当時の世界では極めてユニークな経営形態であった。

 経営者は、エドワード・ウィリアム・コールであった。コールは子供向け童話「コールのおかしな絵本(Cole’s Funny Picture Books)の作者でもあった。コールのおかしな絵本はビクトリア時代の子供たちに夢を与えた。コールの孫によって増刷され1990年代まで書店の棚に置かれていた。コールは人生の後半は、裕福で礼儀正しかったが、世間ではコールのことをちょっと変わった男としていた。引きこもり(reclusive)がちなウィリー・ウォンカ型の変わり者(oddball)であるとされた。社交家ではなく家族と本を好んだ。


 ビクトリア時代は、偏見(prejudice)と不平等( inequality)の時代であった。コールの過激で楽観的人権主義は、電気式電灯のように輝いた。コールの理想世界を実現しようとして作家として経営者として前に進んだ。コールは全ての人種の一般的な人権思想についてエッセイを出版し、パンフレットを作った。全ての宗教の価値やオーストラリアに住む広範囲な人種の利点をを分かち合った。1890年代にメルボルンの中国系コミュニティに対する人種差別に反対して、顧客や多人種の従業員と出会う場所である喫茶店ティーサロンを開設した。銅製のコイン形状の入場券「メダリオン」を鋳造した。そこには彼の心情(モットー)が数か国語で書かれていた。



  コールは、内蔵に悪影響を与える(organ-crushing)コルセットや乗馬の際に、両足を片側に揃えて乗る作法( riding sidesaddle)など女性独特の作法に対する社会的な制限に反対していた。コールは教育が平等をもたらす鍵であると信じていた。ビクトリア時代の厳格な(draconian)教育指針に反対していた。彼の有名なユーモラスな漫画「学校の悪戯っ子をむち打ちす機械」があった。ゴールドラッシュ時代が終わり、1890年代の不況の時代が来た。コールは子供用の安い本のシリーズを発行した。メルボルンの貧しい家庭の子供たちがクリスマスプレゼントをもらえる為であった。
コールは起源3000年代には、人生の長さは2倍空飛ぶ機械や、鉄道の時代、電話機が世界中に普及し、全ての国々が近くなる時代が来ると予想していた。


 メルボルン在住の作家アメリア・ミラーの作品「世界で最も素敵な書店(Grandest Bookshop in the World by Amelia Mellor)」にはコールのブックアーケードの話が描かれている。コールは、2百万冊を保有していると主張したが、当時の世界最大の書店であった。一般的な書店は静かな落ち着いた雰囲気であるのに対してカーニバルのお祭りのようであった。多くのお客が詰めかけて、警察官が出動するほどであった。群衆を抑制するために入場券が配られた。スタッフは明るい赤色のジャケットを着て毎日午後にはピアノの生演奏があった。店舗は非常に繁盛して、コールは近隣の建物を買収することが出来た。最後にはバーク通りからリトルコリンズ通りまでの全ての建物を買収した。建物の間をアーケードには言葉をしゃべる鳥やエキゾチックな植物を配置した。


 Rudyard Kiping や Mark Twainもオーストラリア訪問の際に、わざわざ立ち寄った。コールは、風変わりな(whimsical)、空想的な(fantastical)人物であった。コールのアーケードには数多くのアトラクションが付け加えられた。鏡を多用した娯楽ホール、視覚的な幻影を駆使したギャラリー、音楽ボックス、生きたサルをたくさん入れられた動物ハウスなど当時の最も先進のテーマパークであった。1875年にヘラルド新聞に1ページの奥さん募集の広告を打った。1か月後に唯一の真剣な応募者であるEliza Frances Jordanと結婚した。作家としてだけでなくコールは出版も始めた。コールのおかしな絵本(Cole's Funny Picture Book:1879)は、コールの最も成功した本であった。現在、メルボルン博物館ではいくつかの実例を見ることが出来る。コールのおかしなお医者さん(Cole's Fun Doctor:1886))、コールの知性みがき器(Cole's Intellect Sharpener :1900)、世界の1000ベスト詩(The Thousand Best Poems in the World :1891)。コールは、オーストラリアでの人種融和(racial integration)の目的で(in favour of)宗教から学術論文なで多数の本を出版してきた。

 エライザは、1911年に他界し、コールは郊外で隠居し1918年に他界した。
メルボルンのアーガス紙は、コールの人物は人徳があり、家庭への愛着、改革への熱意、ビジネスの 辣腕、シンプルさ、全てが密接に混在していた。と評した。



 



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